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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

説教「墓」

11月16日 仙台市民教会説教 「墓」
この説教については、「説教をひとつ、追加しました」を参照ください。

『新約聖書』「ヨハネによる福音書」11章25節以下

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。


『旧約聖書』「創世記」49章29節以下

彼はまた彼らに命じて言った、「わたしはわが民に加えられようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。そのほら穴はカナンの地のマムレの東にあるマクペラの畑にあり、アブラハムがヘテびとエフロンから畑と共に買い取り、所有の墓地としたもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られ、イサクと妻リベカもそこに葬られたが、わたしはまたそこにレアを葬った。あの畑とその中にあるほら穴とはヘテの人々から買ったものです」。

詩編90編

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 子供を育てる、ということは、本当に得難い経験だと、しばしば、思わされます。人間とは何であるかを、ハッと、気づかされることが多くあるからです。

 先日、祖母が亡くなりました。もう数ヵ月前から、何度も、「今週、亡くなるかもしれない」と言われ続けましたので、変な話ですが、私は準備万端な気持で、納棺から埋骨まで続く一連の「葬儀」に参加することができました。

 葬儀には、3歳の娘も、全行程に亘って参加することができました。娘は、「死」というものがあることに、驚いていました。

 そうなのです。「死」というものは、「はじめからあるもの」ではないのです。娘にとって、「死」は、新しい事実でした。私たち人間はすべて、いのちを与えられてこの世界に登場します。そして、その最初において、私たち人間は、自分が「死ぬべき存在」であることを知らない。自分と絆で繋がっている誰かが亡くなる時、初めて、人間は「死」というものがあることを知るのだ――そんなことを、娘が教えてくれました。

 娘に、私は、「死」を教えなければならない。人は、子供に、「死」を教えなければならない。「死」というものは、食事や睡眠と違って、後付けで、体験と言葉を用いて、教えてあげなければならないものである。

 私は、娘に、「死」を教えなければなりませんでした。どうしたら娘に「死」を教えることができるか。考えた結果、「引き算」ということを、道具に使いました。

 娘は、今、どんどん「足し算」をしています。新しい人と出会い、新しいものを見聞きし、新しい言葉を覚え、新しい悪戯をやってみる。どんどん、「足し算」をしている。でも、人生には「引き算」もある。人生には「死」がある。お父さんが死ぬと、もう、ずーっと、お父さんとは遊べなくなる。お父さんはいなくなる。「死」とは、そういうものだ。

 貪欲な私たちは、人生に「引き算」があることを、忘れて生きて行きがちです。だから、つい、心ないことを言ったりやったりして、大切なものを失ってしまう。失ったものを取りかえすことは、時に、大変なことになります。人は、時間を取り戻すことができない。人生は一回しかない。大切なものは、しばしば、永遠に取り戻せない。

 「死」というものは、人生に「引き算」があることを教えてくれます。しかし、人間は最初から「死」を知っているわけではない。だから、しばしば人間は、「死」を忘れてしまいます。特に、都市に住む人は、「死」を忘れてしまう。都市は、衛生状態を確保するために、どうしても、腐敗や死を隠ぺいしてしまいます。お肉も魚も、スーパーに並んでいる限り、流血の生々しさを漂白されて、つやつやと輝いている。道路などに動物の死骸があれば、一日も経たないうちに、それはきれいに片づけられる。火葬場は町はずれにひっそりと立てられ、死の臭いは街のどこにもしない。私たちはそうした「都市」に生きています。だから、私たちは、たとえオトナであっても、まるで「死」を知らないコドモのように、毎日を忙しく暮らしている。

 そんな私たちに、「死」というものがあるのだということを思い出させてくれる装置が、あります。それは、「お墓」です。

 今年も、11月となり、教会の行事「永眠者記念日」がやってきました。私たちも、故人を偲び、墓参をしました。墓参をするということ。それは、いったい何をしているのでしょうか。お墓とは、いったい何でしょうか。今朝は、少し、そのことを考えてみたいのです。

 故人を偲ぶとき、不思議なことが起こります。私たちは、それぞれ皆、思い出をもっている。それは、私たちの脳にしまい込まれた記憶の情報です。それは、情報に過ぎません。私たちは情報としての記憶をもっている。でも、情報を持っているだけでは、何の意味もありません。記憶は、思い出さなければならない。思い出せない記憶は、記憶していないのと同じことになってしまう。それで、私たちは互いに語り合い、思い出を引き出しあおうと、努力する。

 私たちは何かを思い出すとき、お互いに「あぁ!」と言う。この「あぁ!」には、不思議なことが伴います。私たちはそれぞれ別々の情報をもっているはずなのに、一つの情景が、他人同士の間に、ほんの刹那、瞬く。私たちは、それぞれの心の中に、同じような何かを、同時に思い描く。少なくともそう感じて、私たちは互いに共感し合います。永遠に過ぎ去ったはずの「過去」が、「いま・ここ」に、圧縮されて共有される。何かを思い出す、というのは、時間を操作することなのかも知れません。

 「お墓」、というものは、本当に不思議な場所です。そこには、故人が眠っている。そこに集まる時、私たちはさまざまな記憶を引き出される。そこに立つ時、過去が沈黙の内に立ちあがる。

 「お墓」という場所がある。それは、一つの空間です。「お墓」の不思議で素晴らしいことは、一つの空間に、時間が閉じ込められている、ということです。ちょうど、遺骨となった死者の身体が墓石の下に閉じ込められているように、過去という時間が、お墓という場所に閉じ込められている。そこに立つ時、私たちは厳粛な気持ちになります。「時」には終わりがあるということを、「お墓」は、無言の内に、すさまじいほどの説得力で語りかけてきます。いつか、私の時間も、終わる。一つの空間の中に閉じ込められてしまう。それは、厳粛な現実です。

 今日は、その現実の厳粛さに涙する人々の情景を、新約聖書に見ました。古代末期のパレスチナ地方の、お墓のお話です。当時、この地方のお墓は、大きなほら穴に巨大な石でふたをしたものでした。ほら穴に死者を安置し、石でそれをふさいで閉じ込める。故人の「時」は、その墓穴の中に閉じ込められ、留め置かれる。親族=遺族は、故人が墓穴の中に閉じ込められ、もう戻ってこないことを思って、涙にくれる。

 そうした、「死」と向き合わされる古代パレスチナ地方の人々の心の叫びが、結晶化して美しい歌となり、残されました。今日の交読詩編(詩編90編)です。

 「お墓」は、私たちに、人生の本当の姿を知らせます。つまり、人生には終わりがあるということを、知らせます。終りがある、ということを知る時、人生の意味が変わる。無限に続くのではない、ということを知る時、一瞬一瞬が、貴重でかけ替えのないものとなる。あるいは、失ったものの大きさを知り、犯してきた過ちの取り返しのつかないことを知る。人生は限りがあるという事実は、人生を新しく照らし出す光です。それは、墓という場所に反射して、私たちの所に届けられる。「死」は、新しい光を放って、人生を照らしだす。そして、その光は、黒々とした影を、私たちの歩みの後に落とします。それは「いま・ここ」の本当の姿を示してくれる。そうして初めて、私たちは謙虚に、祈るように、こうつぶやくことができるのです。

  生涯の日を正しく数えるように教えて下さい。
  知恵ある心を得ることができますように。


しかし、「死」が発する光は、暗い影を投げかけるものです。すべては失われる、諸行無常の理は、私たちにある種の絶望を促してくる。

それでも、私たちは、生きなければならない。

――どうやって?

 「お墓」は、私たちを厳粛にさせるものです。それはなぜでしょうか。それは、おそらく、「お墓」に立つ時、私たちは生きていくことの意味を問い直すように、無言の内に強く促されるからではないでしょうか。「死」がある。自分の人生は、いつか終わる。では、どう生きるのか。どうやって、生きるのか。どうせ終わるのに、どうやって、絶望しないで生きて行けるのか。

 私たちの「時」は、いつか、「お墓」の中に閉じ込められる。これは、事実です。この事実は、とても意地悪なものです。私たちの「時」がいつか終わるからこそ、私たちは「いま・ここ」の儚さを思い、これを大切にしたいと思う。しかし、大切なものと思う「いま・ここ」は、こうしている間に、まるで手にすくった水がどうしようもなくこぼれ落ちるように、休みなく過ぎ去って行く。そして、いつか、私の「時」は終わる。

 お墓を前にして、私たちは、本当の祈りを知るのかもしれません。
 ちょうど、今日の詩編90編が祈ったように――。

  主よ、帰って来てください。
  いつまで捨てておかれるのですか。
  あなたの僕らを力づけて下さい。


私たちは、「お墓」を前にする時、「時」に終わりが来る事を知らされる。それでも生きていかなければならないと覚悟を決めるとき、私たちは「新しい時」の来ることを心に願い、祈る。「いま・ここ」の時は消えさる。そうであれば、「新しい時」が来る事を待たなければならない。神様が帰ってきて下さり、永遠の時がやってくる、そのことを待たなければ、私たちは、「死」の持つ光の強さに、耐えられないかもしれません。「お墓」は、私たちに本当の祈りを呼び起こします。「お墓の中に封じ込められた時」に代わる「新しい時」が来る事を待ち、それを願う、心からの祈りです。

 この祈りは、厳しい祈りです。しかし、この祈りは、私たちを救う祈りでもある。私たちは、この厳しい祈りを、おそらく、一人では、しない。この厳しい祈り・「新しい時」がやってくることを願う祈りにおいて、私たちは、時間を越えて、大きな連帯の中に入る――「お墓」には、そんな機能もあります。

 お墓には、故人の名前がある。だから、確かに、そこに故人の時間が封印されていると言えるでしょう。お墓に行くと、私たちは故人の思い出を引き出される。故人はそこに眠り、後輩はその思い出に涙する。それが、「お墓」という場所です。そこに眠る故人も、かつて、その前に亡くなった誰かを思って、やはりお墓で思い出に涙し、「新しい時」の来ることを祈ったことでしょう。そうして、私たちは時間を超えて、同じ祈りへと導かれる。先に逝った先達と、今ここの私と、まだ見ぬ後輩とが、同じ祈りにおいて、結びあわされる。

 今日お読みいただいた旧約聖書は、そんなことを思わせるお墓の話です。いまから4000年程も昔の、伝説のような話です。アブラハムという人が、地縁と血縁を断ち切って、信仰の一族の創始者となった。その信仰の一族の眠る場所に、自分も葬ってくれと、一人の人が遺言を残している。そんな場面が、今日の旧約聖書の箇所でした。

 古来、お墓は、宗教と結びついています。なぜか。それは、祈りと関係していることでしょう。「死」の現実に促され、同じ祈りをリレーする。そこには、祈りのバトンの受け渡しがある。同じ祈りにおいて、人は永遠に連帯し続ける。宗教は、それを支える枠組みを用意しています。でも、時にそれは機能不全に陥ることがあります。形骸化し、内容を空疎にしてしまうこともありますし、宗教が時代に合わなくなって、打ち捨てられてしまうこともあります。

 私たちは、おぼつかないものです。忙しいと言っては墓参を忘れたりする。だから、宗教をこしらえて、祈りを忘れないように工夫しています。しかし、それでも、私たちはおぼつかない。私たちは、怠惰のために、祈りのリレーを忘れるかもしれない。調子よく毎日を過ごすうちに、「死」のあることすら、失念してしまう滑稽を演ずるかもしれない。困ったことです。

 そう考えてみると、今日の新約聖書の箇所は、本当に感動的な場面を描いているのだと思います。今日お読みいただいた「ヨハネの福音書」は、イエスを神・永遠のロゴス・キリストであると宣言して物語を綴っています。その物語の中で、イエスが、墓場で泣くのです。それはつまり、神様は墓に立ち、私たちと共に泣いて下さるということです。これは驚くべきこと、これは本当に驚異的な、善き知らせではありませんか。

 私たちは、おぼつかない。宗教も、必ずしも万能ではない。しかし、神様が、墓に立たれる。神様が、「死」の現実と向き合ってくださる。神様が、「死」に涙して下さる。このことに、私たちは、安心します。私たちは、祈りのリレーを神様と共に行う。神様が、私たちのリレーを支えて下さる。これは、巨大な福音だと思います。この福音に支えられて、私たちは「お墓」に立つ時、永遠の連帯に参加することができるのです。

 「お墓」が、時間を閉じ込めるものだと、申しました。そこに、故人は封じられる。その現実が、「死」を具体的なものとして私たちに示す。そこに、人生を考えさせられる私たちは、祈りを喚び起こされる。その祈りにおいて、私たちは永遠の連帯に入る。そんなことを申し上げました。しかし、それで終わってはいけません。もうひとつ、巨大なメッセージを、私たちは聖書から読み取らなければなりません。

 少し前、「千の風になって」という歌が、流行りました。お墓の前で泣かないでほしい、そこには私はいないのだから、と、そういう歌詞でした。それは、アメリカ原住民の歌を輸入して作ったものであると聞いています。そもそも、「お墓」とは何か。それを調べてみると、この歌は本当のことだと知らされます。

 社会学者の調査等によりますと、つい40年前まで、日本では、土葬が一般的であったとのことです。寺院の墓地は狭いですから、人を埋めておくには適しません。ですから、町から遠く離れた場所に、遺体を埋める。それは、お墓ではありません。それは、埋葬地です。埋葬地は、墓地とは別ものでした。

 遺体を野山の穴の中に埋めた後、人々は帰ってきて、お寺のお墓に故人の名前を立て、供養をする。これが、徳川時代以来の、日本の伝統的葬儀のあり方でした。つまり「お墓」には故人を安置していない。そこには、体はない。名前だけがある。それが、つい30年前までの日本の「お墓」でした。

 公共事業が進み、火葬が行える施設を各市町村が完備するようになって、今の埋葬の形が「普通」になりました。しかし、そんな今でも、実質は変わっていないかもしれません。今、人はその最後、焼かれ、骨となったのち、埋骨されます。それから100年もたてば、その「骨」は、塵となって形を失うでしょう。まさに、詩編90編が歌ったとおりです。

  あなたは人を塵に返し
  「人の子よ、帰れ」と仰せになります。


「お墓」には、実は、何もないのです。いつか、墓の中は空っぽになる。そこには塵しか残らない。「お墓」は、空っぽになる。

 「お墓」には、時間を閉じ込める力があると申しました。時間を閉じ込める場所が、「お墓」です。しかし、その場所は、「空(くう)」である。何もないから、私たちの心はそこに思い出を充満させる。空っぽだから、祈りがそこに吹きこまれ、人間の思いがそこに充満している。「お墓」は、実は、「死の向こう側」を指し示す、巨大な空っぽの場所なのです。

 今日の新約聖書の箇所の最後をご覧ください。そこには、人間の悲しいつぶやきが聞こえてきます。

  「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」

 このつぶやきは、深くえぐり取るような、鈍い刃のような、そんな後味を残すものです。聖書の続きの箇所をご覧になればわかるとおり、実際には、この後に奇跡が起こったと、物語は続きます。死んでいたラザロという男が、イエスの呼び出しの声に従って、墓から出てくる。よみがえりの奇蹟。人々は驚き、熱狂してしまう、奇跡の物語です。しかし、考えてみましょう。それでもたぶん、甦ったラザロという奇跡の人は、恐らくいつか、死んだことでしょう。神の子キリストであっても、人を死なないようにはできない。だから、イエスは墓を前に泣いた。

 私たちは、どんなに善幸を尽くし、どんなに信仰深くあったとしても、たぶん、皆、死にます。おそらく100パーセントの確率で、私たちは皆、死に絶える。とすると、人生はやはり空虚ではないか。信仰は、意味がないのではないか。

 これは、深く考えなければならない、深刻な問題です。

 今日の聖書の箇所の最初をご覧ください。イエスは何と言っているでしょうか。

  「私は復活であり、いのちである。私を信じる者は、死んでも生きる。
  生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」


そんなバカなことがあるでしょうか。ラザロは死んだのです!ラザロは死んだ。「決して死ぬことはない」という言葉は、嘘です。空っぽの言葉です。それは、すべての人が認めることでしょう。イエスは、いったい何を言っているのか。空っぽの、空約束をしているではないか。

 しかし、このイエスの言葉の最後が重要です。イエスは、上記の異様な言葉を吐いたのち、こう付け加えるのです。

  「このことを信じるか」

「このことを信じるか」と、イエスは訊ねる。
「このことを理解するか」とか、「このことを確認できたか」とは、訊ねない。
考えてみて、確認して、そうして「そうだ」と、そんなことを求めてはいないのです。
無根拠に、「信じるか」と問われる。

 「お墓」は、空っぽです。しかし、それだからこそ、私たちの思いと祈りがそこに引き出される。たぶん、同じなのでしょう。現実を前に、イエスの言葉は空っぽです。「貧しいものが幸いだ」といい、「神の国は今まさにここにある」と、貧民の直中で、イエスは叫んでいたといいます。いったいそれは何でしょうか。それは嘘ではありませんか。それは、空っぽの言葉ではありませんか――そうなのです。それは、空っぽなのです。しかし、空っぽの言葉は私たちに問いかける。「あなたはそれを信じるか?」

 私たちは、毎月、聖餐式に与ります。パンが取られ、ワインが注がれ、そして、「これはイエス・キリストのからだ、イエス・キリストの血」と、それを頂く。もしそれを誰かキリスト教徒でない人が見ていたら、さぞ、異様な光景に見えることでしょう。「そんなのは、嘘だ」と、きっと、心の中に思うかもしれない。パンはパンであり、ワインはワインなのです。それはからだでもなければ、血でもない。その言葉は、「お墓」と同様に、空っぽなのです。

 しかし、空っぽの言葉には、ものすごい力がある。空っぽの言葉は、私たちの心に直接作用して、不思議なことを引き起こします。目に見えるものの直中で、目に見えない何かが、目に見えるものを食い破るようにして、立ち現れる。パンとワインは、キリストの肉と血が私たちのために流されていることを、新しく、思い出させる。イエスの言葉に触れるとき、神様の支配は神も仏もないような現実の只中に始まるかもしれないという希望が、私たちの中に湧き上がる。「お墓」は、空っぽであることによって、死の向こう側がある「何か」を、私たちに予感させる。

 私たちは、出口のない世界に生きています。目に見えるものは、すべて、行き詰っているように感じられる。それでは、空想の中に逃げ込みましょうか。しかし、優れたアニメーションやゲームが見事に示している通り、空想の中もまた、無限に広がる、出口のない閉鎖空間である。またそこから逃げて、宗教に頼りましょうか。あるいは、アルコールや娯楽で感覚を麻痺させましょうか。それもまた、気休めにすらならないことでしょう。

 出口のない世界に、私たちは生きているのです。それであれば、その世界の只中に、突破口を開けてしまえばいい。突破口はどこにあるでしょうか。それは、空っぽの言葉の中にあるのです。

  「私は復活であり、いのちである。私を信じる者は、死んでも生きる。
  生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
  このことを信じるか。」


これは、空っぽの言葉です。しかし、これは、この世界に巨大な穴をあける、恐るべき言葉なのです。

 もし私たちがこの異様な言葉を信じるなら、私たちは「キリストの墓」の前に立つことができる。そこは、空っぽの墓なのです。もし私たちがキリストの空っぽの言葉を信じるなら、私たちはいつでも、キリストと共にいることになる。痛み苦しみの満ちている時、恐れ悲しみの溢れるとき、憂いに浸されるとき、この世界に巨大な穴をあけるこの言葉を信じることができる人は、キリストと共に、この世界の直中で、新しい世界に生きる。死すべき体を纏いつつ、永遠の命に生きる。悲しみに涙を流しつつ、喜びと平安の光に浴する。絶望の直中で、希望を手にする。

 今日は「お墓」について考えてみました。三つのことを、「お墓」に読み取ったのです。

 第一に、「時間を閉じ込める空間としてのお墓」。それは、「新しい時」の来ることを待たされる場所。それは、「いま・ここ」の本当の姿を示し、祈りへと私たちを誘う「お墓」でした。

 第二に、「連帯の絆としてのお墓」。先達がそこに待ち、後輩はそこに涙する場所。それは、神もまた共に涙を分かち合ってくださることによって、時間を超えた、永遠の連帯を私たちに与える「お墓」でした。

 第三に、「空虚なお墓」。実は、そこが空っぽである場所。それは、キリストの異様な言葉に導かれることによって、死が充満する直中に「死の向こう側」を垣間見る場所としての「お墓」でした。

 主が共におられるという福音は、闇に投じられた光です。死は終りでないという復活の福音は、私たちの人生を導く命綱です。それは、十字架の業によって打ち立てられた神様の勝利です。神様の勝利に導かれて歩むことを思い出すために、礼拝がある。そのことを感謝して、お祈りいたします。


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