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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

「荒野を葡萄と蜜の地に」

旧約聖書「イザヤ書」40章27節以下

ヤコブよ
なんぢ何故にわが途はヱホバにかくれたりといふや
イスラエルよ
汝なにゆゑにわが訟はわが神の前をすぎされりとかたるや
汝しらざるか聞ざるか
ヱホバはとこしへの神
地のはての創造者にして倦たまふことなく
また疲れたまふことなく
その聰明こと測りがたし
疲れたるものには力をあたへ
勢力なきものには強きをまし加へたまふ
年少きものもつかれてうみ
壯んなるものも衰へおとろふ
然はあれどヱホバを俟望むものは新なる力をえん
また鷲のごとく翼をはりてのぼらん
走れどもつかれず歩めども倦ざるべし


新約聖書「ルカによる福音書」2章(マリアの賛歌)

わがこころ主をあがめ、
わが靈はわが救主なる神を喜びまつる。
その婢女の卑しきをも顧み給へばなり。
視よ、今よりのち萬世の人われを幸福とせん。
全能者われに大なる事を爲したまへばなり。
その御名は聖なり、
そのあはれみは代々かしこみ恐るる者に臨むなり。
神は御腕にて權力をあらはし、
心の念に高ぶる者を散し、
權勢ある者を座位より下し、
いやしき者を高うし、
飢ゑたる者を善き物に飽かせ、
富める者を空しく去らせ給ふ。
また我らの先祖に告げ給ひし如く、
アブラハムとその裔とに對するあはれみを永遠に忘れじとて、
僕イスラエルを助けたまへり


詩篇118編

恵み深い主に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。
イスラエルは言え。
慈しみはとこしえに。
アロンの家は言え。
慈しみはとこしえに。
主を畏れる人は言え。
慈しみはとこしえに。

苦難のはざまから主を呼び求めると
主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
人間がわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、助けとなって
わたしを憎む者らを支配させてくださる。
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
国々はこぞってわたしを包囲するが
主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
彼らは幾重にも包囲するが
主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
蜂のようにわたしを包囲するが
茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

激しく攻められて倒れそうになったわたしを
主は助けてくださった。
主はわたしの砦、わたしの歌。
主はわたしの救いとなってくださった。
御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。
主の右の手は御力を示す。
主の右の手は高く上がり
主の右の手は御力を示す。
死ぬことなく、生き長らえて
主の御業を語り伝えよう。
主はわたしを厳しく懲らしめられたが
死に渡すことはなさらなかった。

正義の城門を開け
わたしは入って主に感謝しよう。
これは主の城門
主に従う人々はここを入る。
わたしはあなたに感謝をささげる
あなたは答え、救いを与えてくださった。

家を建てる者の退けた石が
隅の親石となった。
これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。
今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。

祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
祭壇の角のところまで
祭りのいけにえを綱でひいて行け。
あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
わたしの神よ、あなたをあがめる。

恵み深い主に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。


 アドヴェント第三週となりました。教会の暦は、四回の日曜日をクリスマスの準備期間として設け、これをアドヴェントと呼びます。今年のアドヴェントは、どのような流れにあるか、まず、振り返ってみましょう。

 アドヴェントの第一週目、私たちは、私たちの教会の前牧師・戸枝義明先生の説教を、テープで聞きました。折しも日本基督教団の総会が終わったばかりの11月末日でした。その日、私たちは、「教会」について、共に考えたのです。本来、教会とは何であるか。そして、現実の教会はいったいどうなっているか。私たちは粛然とさせられ、あるいは落胆しながら、アドヴェントの第一日曜日の説教を聞きました。

 アドヴェント第二週目、私たちは、私たちの教会の牧師である西間木一衛先生の説教を、イザヤ書40章から聞きました。大きな戦に敗れ、難民となって絶望の底に沈む人々に、慰めを伝える神の言が響く。イザヤ書40章冒頭に記された慰めの言葉は、アドヴェントの心構えを私たちに伝えました。つまり、私たちは喜びの準備をしなければならない。クリスマスを喜ぶ備えが、私たちには必要であるということ。このことは、第一週の説教を踏まえるとき、実に「本当だ」と思わされます。現実は、暗いのです。本気になって現実を見つめるとき、私たちは、絶望的な気持ちになる。しかし、現実から目を背けるなら、私たちは偽りの喜びに踊らされることになる。だから、現実を見つめ、その現実に打ち負かされることのない本当の喜びを探し求めなければならない。

 そして、今日、アドヴェントの第三週目です。教会の現実を知り、そこに暗然としながら、絶望に抗して希望を探し、クリスマスの備えをする。その備えの土台は何か。それを、今日は考えてみたいと思います。

 先週、西間木先生が丁寧にお示しくださったイザヤ書40章は、実に不思議な力を秘めた聖書の言葉です。それは、絶望的な状況の直中で、絶望的状況を引き裂くようにして強烈な希望が輝き出す、そんな言葉として、度々用いられてきました。

 劇的にこの言葉が輝きだした良い例は、つい最近ありました。私たちは、バラク・オバマの登場に、40年前の奇跡的出来事を思い出したのではないでしょうか。およそ40年ほど前、イザヤ書40章は新鮮な響きを湛えつつ、私たちに希望を与えたのでした。それは、このような「I have a dream」と呼ばれる演説の中の、こんな一節です。


  私は夢見ている。
  その日、谷は全て埋め立てられ、
  丘と山は全て削り取られて低くなり、
  荒れ地は整地され、ゆがんだ場所はまっすぐになり、
  そして、主の栄光を、すべての人が、共に、その目で見ることになる。

  これが、私たちの希望だ。この信仰を手に、私は南部へ帰って行こう。
  この信仰を手にした私たちは、
  絶望の山から希望の宝石を切り出すことができる。
  この国の耳障りな不協和音は、
  この信仰によって、兄弟愛の交響曲へと変えられる。
  私たちにはそれができる。
  この信仰を手に、
  私たちには大きなことができる。
  一緒に働き、一緒に祈り、
  一緒に苦しみ、一緒に牢屋へ行くことができる。
  それは、自由のために一緒に立ち上がることだ。
  それは、来るべき日に、私たちが自由になることを知るためだ。

上記の言葉のうち、太字で表した所は、イザヤ書40章の言葉なのです。つまり、絶望の底に沈んでいるはずの黒人、そして、奴隷制度を変えることができずにいる自分たちを恥じる白人は、1963年のワシントンで、イザヤ書40章の言葉を聞いたのです。そこには新鮮な響きがあった。このイザヤ書40章の言葉は、実に、今から2500年も昔の、アメリカ大陸から見れば地球の裏側で響いた、小さな言葉でした。しかし、それは今から40年前に、人々の心を鼓舞し、新しい希望へと勇気づけた。

 イザヤ書40章は、しばしば時間と空間を越えて響き渡り、そして、事件を引き起こします。

 今から2000年前にも、この言葉は絶望に沈む人々に新鮮な響きを届けた様子です。

 聖書の物語に語られる、一人の女性。ある日、突然、望まずに子供を授かった女性です。父親は誰だか判りません。この女性は、突然、世間の理不尽の谷底へ突き落されます。一方的に子供を授けられたのに、子供を宿した責任を問われて殺されるかもしれない、そんな絶望的な状況に、突然、追い込まれました。

 しかし、この女性は、イザヤ書40章の言葉を自分のものとして、絶望の直中で輝く希望を手にします。それこそ、今日お読みいただきました新約聖書、有名な「マリアの賛歌」なのです。

 理不尽なかたちで胎の中に子供を宿され、世間を恐れ親戚の下に逃げた一人の女性――その人の名をマリアといいます。突然の暴力的な事態に翻弄されるマリアを、親戚のエリサベツという女性が迎えます。この女性もまた、「子供が産めない」ということで、理不尽にも苦しめられてきた人でした。世間の理不尽の谷底を知る者だけが、絶望的な状況にある人を匿うことができる。エリサベツは、優しくマリアに言うのです。「あなたの子供は祝福された子供だ。私にはそれがわかる」――その一言を聴いたとき、マリアは突然、イザヤ書40章の言葉を我がものとする。絶望の谷間は引き上げられ、高慢不遜に振る舞う高き丘は削り取られる。飢えた者は満たされ、飽食にふける者は空腹を思い知らされる。神様は、私たちの味方なのだ!

 マリアの喜びの歌から数十年後。再び、イザヤ書40章の言葉が響き渡ったと、聖書の物語は続きます。

 マリアが、「神様は私たちの味方なのだ」と語った、その「私たち」とは、イスラエル人のことを指しました。しかし、現実のイスラエルの人々は、決して幸せではなかった。格差が広がり、貧しい人はいよいよ貧しくなり、行き場を失って絶望する大勢の人々がいる。そんな状景が、イスラエルのあちこちに広がっていた。人々は絶望しています。しかし、絶望する人々に、一人の人が叫んで言うのです。「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は皆低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」。つまり、イザヤ書40章の言葉が、また、響き渡った。このとき叫んだ人は、ヨハネと呼ばれる人でした。この人は、人々に言うのです。絶望するな。絶望している人は前に出てこい。絶望している人生を、完全に水に流して、生まれ変われ。

 そして、ヨハネは言うのです。自分たちを特別な存在だなどと思うな。神様は、石ころからでも、特別な民族を創り出すことができる。大事なのは、石ころからでも掛け替えのない存在を造り出せる神なのだ。

 イザヤ書40章の言葉は、慰めの言葉です。その慰めの言葉は、私たちに新しい勇気を与える。それは、時間と空間を越えて、常に瑞々しい希望を与える神の言です。しかし、その勇気と希望の源は何か。なぜ、私たちは絶望の底から救われることができるのか。なぜ、私たちはイザヤ書40章の言葉に、常に新しい力を見出すことができるのか。ヨハネは、その秘密を語っているように思います。

 イザヤ書40章は、非常に有名な力強い歌をもって終わります。それは、今日の交読文でご一緒にお読みしたものです。それは、厳しく絶望を戒める言葉で始まっていました。「ヤコブよ、なぜ言うのか、なぜ断言するのか、私の道は主に隠されていると。」

 なぜ、人は絶望してはいけないのか。聖書の答えはこうです。絶望することは、神を信じないことなのだ。絶望することはつまり、罪なのだ。「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。聖書の神・主は、永遠の神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく弛むことなく、その英知は究めがたく、疲れた者に力を与え、勢いを失った者には強きを増しくわえて下さる。若者も倦み疲れ、勇者も躓き倒れる。しかし、聖書の神・主を待ち望む者は新たに力を得、鷲のように翼を駆って登る。走れども疲れず、歩めども倦むことがない。」

 無から有を創り出すのが、聖書の神である。絶望する者は、聖書の神を信じていない。それは、聖書の神を見くびっていることだ。だから、絶望は罪である。罪を離れ、絶望することをやめよ――これが、イザヤ書40章の慰めの言葉の根拠なのです。それは、信仰を呼び覚ませという、神様の厳しい招きの言葉なのです。

 私たちは、なぜ、礼拝するのでしょうか。私たちは、なぜ、祈るのでしょうか。私たちは、力を落とすような現実の中に生きているからです。私たちは、絶望するような現場の只中に、生きている。お金があり、地位があり、力があると、そのことを色々な形でごまかすことができます。でも、静かに深く考え見れば、私たちは絶望的な状況の中にいる。私たちは困ってしまう。だから、私たちは礼拝し、祈るのです。

 困った時の神頼み、という言葉があります。この言葉をもって、しばしば、「ご利益宗教」の弊害が語られます。たしかに、ご利益宗教の「困った時の神頼み」は、みっともないものだと思います。でも、私たちの状況は、実は、みっともないものなのではないでしょうか。私たちの現実は、実はそれほど余裕のあるものではない。神様に頼らなければ、私たちは絶望の中に閉じ込められるのではないか。痛み止めの薬を使うように、様々な努力によってごまかして凌いではいるけれど、心底我に帰って静かに思いを致すとき、私たちは「困っている」のではないか。そのことに気づく時、私たちははじめて、本当の祈りをささげることができる。そのときはじめて、私たちは心からの礼拝をささげることができる。「困っているからこそ、神に頼ることができる」。“ご利益宗教問題”を指摘することは正しいことでしょうけれど、その反面にある真理を見逃してはいけないと思います。つまり、困った時の神頼みは、じつは、信仰という事柄の本質を表現しているとも言えるのです。

 そのことを踏まえて、私たちはどうやってアドヴェントを過ごすのか、考えてみましょう。

 今日は、詩篇の118編をお読みいただきました。不思議な力と魅力にあふれている詩です。

 まず、神様への感謝と賛美が歌われます。「慈しみはとこしえに」という歌声が、繰り返し響き渡る。神様が何かご利益を下さったのでしょう。そう思って、よくよくこの詩を読んでみますと、ふと、変なことに気づきます。


われ悩みのなかより主を呼べば
主こたえて我を解き放ちたもう。
主わが方にいます 
われ何をか恐れんや 
人我に何をなしえんや

すこし、様子が変です。ご利益を喜んでいる割には、この歌に、ある種の緊張感が潜んでいる。苦難は、まだこの詩人の足元にあるのかもしれません。この詩人は、まだ、敵の攻撃にさらされている真っ最中であるのでしょう。しかし、そのただ中で、既に苦しみから解き放たれ、敵に勝利している。そういう不思議な緊張感が、この歌に溢れています。

かれらは蜂の如く我をかこめり
かれらは茨の火の如く消えたり

苦しみと救い、苦難と解放、敗北と勝利が、渾然一体となって詩人の人生を巻き込んでいるようです。詩人は、まさに苦しみの現場に立ちつくしながら、悩みの直中で光を見ている。そうして、この詩は、緊張感あふれる救いへの感謝を歌っているのです。

 聖書の神は、無から有を創造する神です。絶望の中に希望を輝かせるのが、聖書の神である。もし聖書の神に祈ろうと思うなら、私たちは現場に立たなければならない。もし聖書の神の言葉を聞こうと思うなら、私たちは現場に立たなければならない。この詩人のように、緊張感あふれる生き生きとした賛美こそ、聖書の神にささげられるべき賛美です。

 なぜ、そうなのか。

 詩篇118編は、その答を示します。



  いえつくりの捨てたる石は 
           隅の親石となれり
  これ 主のなし給えることにして
           我らの目にあやしとするところなり


とかく私たちは、「力」を求めます。私たちは、「力への信仰」を抱きがちです。強くなりたいと願い、みっともない状態を嫌い、端正に美しく立派に信仰者として立ちおおしたいと願う――しかし、そう願う私たちの目に、聖書の神の業は「異様」に映る。聖書の神は、見すぼらしい、打ち捨てられた、みっともない、輝きを失った場所に立たれる。神の国は、人々が打ち捨てて顧みることもない石ころをこそ礎石として選び、その上にだけ、立ちあがる。神は、石ころからでも神の民を創り出される。否、誰もが無視する路傍の石ころこそ、神が選びたもう神の国の礎石なのだ。

 聖書を知る人は、この詩篇118編がどれほど教会にとって重要な歌であるかを思い出すでしょう。教会は、国家と宗教に打ち捨てられた一人の人を、盤石の礎石として立ちあがりました。つまり、十字架にかけられたイエスです。思想犯として逮捕され、政治犯として処刑された人、十字架にかけられたイエスこそ、救い主キリストである。この方こそ神の御子である――この告白が、教会を創り出しました。

 イザヤ書40章は、国を失い、故郷から引きはがされた難民を慰める言葉でした。難民は、葡萄と蜜が溢れる豊穣な故郷を離れ、荒野に放り出された。しかし、その荒野に神の道が通るのだと、神の言は語る。

 ルカ伝一章のマリアの賛歌は、突然の理不尽の中で絶望的状況に陥った一人の女性が、荒野に神の業がなることを信じて夢見た歌でした。

 今でも、世界中に、レイプされ、望まずして子どもを宿された人々がいます。あるいは、望んで子どもを宿したのに、不貞を疑われて子供諸共に存在の意味を疑われる人々もいます。世間は、どこかに理不尽の皺寄せを送りつけながら、平穏な日常を守ろうとする。そうした世間によって、絶望の皺寄せに沈む女性たちは、クリスマスの物語に何を読み取るのか。父親がわからない子供を、神の子であると信じて喜ぶ。暗闇の直中で、信仰の光が輝く。古今東西、マリアの賛歌が歌い継がれてきたことの背景には、繰り返し苦しめられ貶められる小さな命と悲しみの涙がある。

 私たちは、クリスマスを喜びましょう――しかし、どうやって?イルミネーションの光に幻惑され、消費の喜びに心を散らし、師走の喧騒に浮足立っても、現実の悲しみは消えません。現場は、あらゆるごまかしの光の影に、痛みの声を押し止められながら、滞留し続けます。

 力にあこがれ、平穏を愛して痛みを嫌う私たちは、意識して、主の御業に驚かなければならない。私たちの目に驚くべきことを焼きつけるべく、自らの足元を見つめ、見苦しく祈りましょう。祈らずにおれないほどに、深く私たちの足元を見つめましょう。そこに十字架が立ち上がり、神が苦しむ様を見出すまで、この世界の闇を見つめましょう。そうするときはじめて、私たちはクリスマスを心から喜ぶことができる。そうする時私たちは、詩篇の作者と共に、クリスマスの日にこういうことができる。


これ主の設け給える日なり
 われらはこの日に喜び楽しまん
主よねがわくは われらを今救い給え
主よねがわくは われらを今栄えしめ給え

荒野を、葡萄と蜜の地に。絶望の只中に、希望を。暗闇の深奥から、真の光を。私たちは、クリスマスを待つアドヴェントを過ごします。まっすぐに荒野を見つめ、絶望に沈む友の傍に立ち、暗闇をごまかさずに真の光を待ち望みたいと願います。

お祈りをいたします。


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