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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

説教「尊厳」

3月8日 仙台市民教会説教 「尊厳」

「創世記」2章18~20節
「ヨハネによる福音書」11章45~57節
「出エジプト記」20章(十戒)


 今年も、レントの季節になりました。「レント」といいますのは、もともと、ゲルマン語で「春」を意味する言葉です。日本では、「春」とは、終りと始まりの季節となります。決算をし、予算を立てるのが、「春」です。卒業をし、入学をするのが、春です。死に覆われた冬が終わり、命溢れる季節がやってくるのが、「春」です。

 その「春=レント」に、教会は、「受難節」を迎えます。キリストが苦難を受けた、そのことを覚える季節、ということで、これを「受難節」と呼ぶ。喜ばしいはずの「春」に、「死」を覚える。それが、教会の暦になっています。

 この「受難節」あるいは「レント」は、「灰の水曜日」から始まります。イースターから数えて46日前を、「灰の水曜日」といたします。この日、教会は、ナツメヤシや棕櫚の葉を燃やしてこれを灰にし、それを祝福する儀式をおこなう。そうして、「レント」は始まります。

 なぜ、棕櫚の葉を燃やすのか。このことの意味は、深長です。

 イエス様は、歓呼の声に包まれて、首都エルサレムに迎えられました。群衆は、当時の習慣に従って、青々とした葉を街路に敷き詰めて、イエスを迎えた。現代であれば、赤じゅうたんを敷いて高貴なお客様を迎えます。その赤じゅうたんの変わりが、青々とした葉っぱだったのです。教会は後に、この葉っぱを棕櫚かナツメヤシだったろうと考えました。

 イエス様は、この歓呼の声をあげた大群衆によって、この大群衆の為に、処刑されることになります。それは、歓呼の声が上がった、実に、数日後のことなのです。

 教会は、レントが始まるしるしに、ナツメヤシか棕櫚の葉を燃やす。その灰を記念する。なぜでしょうか。今日は、そのことを、ご一緒に考えてみましょう。

 灰、というものは、一つの象徴になります。それは、人間の本質をわたしたちに就きつける、重い、ひりひりするような、一つの象徴です。

 今日は、グァルディーニという現代神学者の言葉を週報に印刷しました。そこには、教会が紡ぎあげてきた美しい言葉が引用されています。それは、こうです。

   Memento homo
   Quia pulvis es
   Et in perverem reverteris !

   人よ、思い見よ。
   汝は塵。
   塵に還るべきもの!


火葬が一般化した現代において、「死」のイメージは、いよいよ、「灰」と結びつきます。それは、吹けば飛びさる「塵」です。

 去る者は日日に疎し、と申します。人は、時間の流れの中で、飛び去るように消えさっていく。そのことを、私たちは「塵」や「灰」の中に読み取る。そして、「死」というものはそういうものだと、思い出すことになる。そうして、私たちは、「人間」とは何であるかを思い出すのです。

 人間とは、移ろうものです。ついこの間、歓呼して迎えたイエス様を、今、極悪人として葬り去ろうとしたり、する。人間とは、何と不定見なものでしょう。人間とは、なんと頼りないものでしょう。でも、そうやって、空気を読み、時流に合わせ、世間に合わせることで、私たちはどうにか生き残る。それが、人間である。この切なさ。そのことを、「灰の水曜日」に、私たちは思い出すのかもしれません。

 「灰」や「塵」という言葉は、しかし、聖書において、特別な意味を持ちます。特に、「人間」という言葉を考えるとき、「灰」や「塵」という言葉は、際立って濃い意味を醸し出します。

 聖書は、「創世記」で始まります。聖書の物語は、闇の中からの光の創造で、幕をあげます。無からの創造。あるいは、マイナスからの出発。しかし、神様の一方的な恵みによって、希望が輝き出す。こうした図式は、聖書のいたるところにみられるものです。人間についても、聖書は、同じ図式で説明をいたします。

 創世記2章には、「ヒト」という生きものの創造譚が、印象的に記されています。神様は、「塵」をお取りになる。そして、その「塵」で人形を作る。更に、その「塵人形」に、神様の霊を吹き入れる。すると、「ヒト」が生まれる。

 私たちは、人間が「塵」や「灰」にすぎないことを、知っています。そして、そのことを前に、厳粛になる。なぜでしょうか。どうせ「塵」や「灰」にすぎないなら、私たちは、もっと自暴自棄に、適当に、投げやりになってもいいはずです。しかし、私たちは、落ち着いて「灰」を考えるとき、なぜか、厳粛になる。これは、不思議なことです。

 パスカルという哲学者の言葉に倣うなら、私たちは、自分が「塵」や「灰」にすぎないということを、今・ここで、知っているという、不思議がある。これは、不思議なことです。「塵」や「灰」は、自分が「塵」や「灰」であることを、知る筈がありません。そして、「塵」や「灰」にすぎないはずの私たちは、なぜか、自分がそうした儚いものであることを、知っているのです。

 教会は、人間を「神の似像(イマゴ・デイ)」と呼んできました。人間は、その形状においては、猿やチンパンジーと変わりません。また、その組成においては、塵にすぎない。しかし、教会は、人間を「神の似像」と呼びます。なぜでしょうか。

 人間は、目に見える限りにおいては、儚いものです。しかし、その「見える限り」の中に、何か、見えない不思議なものがある。人間は、自分自身を知っている。「見える限り」の直中に、「見えない何か」がある。その「何か」は、「見える限り」の事柄が剥き出しになる時(たとえば葬儀の時など)に、その「見える限り」を突き破って、立ち現れてきます。その見えない「何か」とは、つまり、人間の尊厳です。聖書に倣って言うなら、「塵人形」に過ぎないはずの人間の中には、目には見えない神の霊が入っている。それは、神と同じ尊厳を保って、しかし、塵の中にある。

 私たちは、「灰」を前にする時、厳粛な思いに導かれます。なぜでしょうか。おそらく、そこには、人間の尊厳が最も明瞭に現れるからだと思います。人間は「塵」である。しかし、私という人間は、そのことを知っている。まるで神様のように――人間の偉大さ・人間の尊厳は、まさに、そうして初めて、認識されるのだと思います。

 人間の尊厳は、塵において、最も明瞭に認識される、と申しました。その逆のことを、私たちは覚えなければなりません。

 私たちは、自分が塵にすぎないことを、ひそかに、知っています。自分は死んでゆく存在であると、知っている。しかし、そのことを忘れようと、私たちは願います。そのことは、正視するには余りにも厳しい事柄に思えるのです。それで、私たちは、そこに覆いをかけます。健康であるということ。お金をもっているということ。業績を積み上げて見せること。人からの賞賛を獲得すること。そうやって、私たちは、自分が「塵」にすぎないことを、忘れようとする。

 それは、健全なことだと思います。いつも「死」を見据えられるほどに、人は強くはない。

 中世の西欧でペストが流行ったとき、盛んに「死を覚えよ(メメント・モリ)」という言葉が語られました。これは、修道院の中で語られた言葉でした。この言葉が流行するほどの事態が、中世に起こったのです。つまり、人口の四分の一が死ぬという異常事態が頻発した。昨日元気だった人が、今日、生きているかどうかわからない。そうした事態が起こりました。その時、「死」は日常化したのです。

 そうした時、人間の尊厳はどうなったか。歴史家は悲しい現実を示します。
ペストが流行り、「死」が日常化した時、社会は、すさんでいったというのです。親は子を顧みなくなり、子は親を顧みなくなる。社会自体が、死に飲み込まれ、暗く沈んでいったというのです。

 ですから、生ある者は、死を遠ざけるべきなのでしょう。明るく朗らかに、前向きに上昇志向で、なし得ることを成し得る限り、輝くように生きること――それは、きっと、素敵なことなのだと思います。
しかし、その反面も、あるようです。

 人は、死を忘れるとき、尊厳そのものも、忘れてしまう、ということです。
人生には終わりがあるということ。そのことを忘れるとき、人は、社会や制度や世間の歯車になってしまう。死が忘れ去られるとき、人の価値は、相対化され、比較可能なものとなってしまいます。つまり、その人の掛け替えなさは、死を前にして初めて、思い出される。どんなに能力があろうと、なかろうと、どんなにお金があろうと、なかろうと、どんなに立派であろうと、なかろうと、どんなに正しかろうと、悪い人だろうと、関係なく、死はやってくる。その現実を前にして初めて、私たちは、他人との比較をやめます。その自分自身を見つめることができるようになります。そうして初めて、私たちは、人間の尊厳ということを思い出すのです。

 日常生活においても、「死」に似た事柄は、随所にあるはずなのです。それはたとえば、休息ということに、見出されます。

 誰でも、疲れれば、休みます。人は、休まなければならない。無為に、無駄に、生産性という事柄から離れて、時に、人は休まなければなりません。そして、休む時に初めて、人は、人間の尊厳というものを思い出すのです。働きづめをしている限り、人は、機械と変わりません。どんなに成果を上げようと、それは、相対的なものです。それは、誰かとの比較の中で、価値が決まるものにすぎません。しかし、人は休む。休む時、その人は、何もしない、ただの人になる。でも、それでもその人はそこにいていい。そうやって、初めて、人の尊厳というものは確認されることになります。

 日曜日というものは、キリスト教の伝統では、「安息日」とも呼ばれます。これは、ユダヤ教の伝統によるものです。そしてそれは、実に偉大な伝統でもあります。

 今日は、交読文として、「十戒」をご一緒にお読みしました。これは、ユダヤ教の憲法のようなもので、旧約聖書の中心理念です。
この「十戒」は、印象的な言葉で始まります。「汝 我の他 何者をも神とすべからず」。そして、この言葉に触れるとき、私たちは誰でも、「我」と名乗っている「神」とは何者かと、興味を惹かれます。あるいは、学生等は、この言葉でもう辟易してしまう。ずいぶん勝手な「神」だな、「我」だけが「神」だとは、ずいぶん独善的だな、と。

 しかし、この「十戒」には、前文があります。それは、こういうものです。「我は汝の神ヤハゥエにして、汝をエジプトの地奴隷の家から導き出したものである。」

 奴隷を解放する神!奴隷を解放する力!――それが、この「我」と名乗るものなのです。それが、聖書の神なのです。そう考えてみますと、「十戒」の冒頭の言葉は、ずいぶん違って聞こえてきます。「汝 我の他 何者をも神とすべからず。」――奴隷を解放する聖書の神の他には、なにも、誰も、神としてはいけない。

 「奴隷」とは、何でしょうか。「十戒」は、古代世界で、誕生しました。古代の思想家に、アリストテレスという人がいます。この人は見事に奴隷ということを説明しました。アリストテレスいわく、「奴隷とは、物を言う道具である」。

 人間は、境遇次第では、道具になってしまう。道具ということはつまり、人間としての尊厳を喪失しているということを意味しています。

 翻って考えてみますと、現代の日本では、「物も言わない道具」として取り扱われる人のどんなに多いことでしょうか。資本主義が発達し、メディアと教育が行き届きますと、「死」は日常から消えさっていきます。すると、人は自らの尊厳を忘れてしまう。そうなってしまえば、言葉は消えていきます。自分を語る言葉をなくすからです。そうして、人は「物も言わぬ道具」となり果てる。

 その典型的な例は、外国人労働者に現れていると思います。人間の尊厳は、日本においては、日本国憲法が保障しています。しかし、外国人は、日本国憲法の保障の範囲外になる。すると、外国人労働者は、本当に、「物も言わぬ道具」として、見事に、使い捨てられています。

 横浜のスラムで牧師を続ける渡辺英俊さんという人がいます。この方は、外国人労働者の現実を見据えながら、「十戒」を「世界で初めての人権宣言」と呼ぶ。なぜでしょうか。それは、「十戒」の第四戒に注目するからです。

 第四戒とは、「安息日規定」と呼ばれるものです。それは、週に一度、安息日を設けて休め、と命じています。そしてそれは、本当に徹底したものとなっている。それは、子供も、奴隷も、家畜も、外国人も、一切の区別がありません。あらゆる生き物は、週に一度、休まなければならない。

 現代だったら、これは、実に厳しすぎる、非現実的だと、批判されるでしょう。そんなことをしていたら、グローバルな競争に勝てない。使えるものは使い倒して、安い人件費は安く買いたたいて、すこしでも利益を挙げなければならない。実際、この十年間、みんな、そう言ってきました。そして、気がついたら、日本中に雇用不安が広がっている。

 事情は、古代においても、同じようなものであったようです。戦争に敗れ、全員が難民化したイスラエルは、奇跡的に国を復興させます。復興はしたけれど、環境は非常に厄介になっていました。オリエント世界は地中海世界と繋がりあってグローバル化していました。競争は激化しています。必死で働かなければ、食べていけない。合理的に、そう考える人々が出てきます。しかし、復興を指導した人々は、それではいけないと考えます。それでは、結局、また戦争に敗れて難民化してしまうことになるだろうと、指導者は考えました。それで、安息日を徹底的に守るように、厳しい法律を定めてこれを守らせることにしました。奴隷も、主婦も、子供も、一切の区別なく、すべての生き物は、神様に創られた尊い命をもっている。それを尊重するために、休むのです。そうして、人の尊厳は保たれることとなる。安息日を守れという戒律は、実に、人間の尊厳を守る運動だったのです。

 この尊厳を守る運動は、多くの高貴な人々の献身的な働きによって、数百年間、支えられ、拡大して行きました。ジャーナリストと弁護士を兼務するような立場の人々が現れて、人々の生活の中に入り、この運動を推進したのでした。その人々は、「ファリサイ派」と呼ばれました。それは、「分離派」という意味で、政治権力化して行く宗教の中枢から離れて、街場の人々の中に散らばって地道に誠実に熱心に活動した人々だったのです。

 しかし、この素晴らしい活動の帰結は、何だったでしょうか。聖書は、悲しい事実を語ります。人間の尊厳を守ろうとするこの運動が、最終的に、イエス様を殺したのだと、そう、聖書は語るのです。

 実は、人間の尊厳を守る安息日運動には、裏面がありました。それは、外国人・奴隷・女性を含むすべての人を守るもので、ほぼ完璧な運動に見えました。しかし、それでも、そこには裏面があった。それは、ある人々の尊厳を踏みにじっていました。この完璧な運動の裏面で理不尽を押し付けられる人がいたのです。それは、病者・障碍者です。

 例えば、病気になった人は、安息日に、何もしてはいけないといわれる。病気を治すことが、禁じられます。それほど徹底しなければ、利益を求めて安息日に働こう・働かせようとする人々の欲望を、抑えきれなかったのだと思います。しかし、病気になった人は、今、癒しを求めている。安息日運動は、病者・障害者に対して、とても冷たい運動でした。

 最大多数の最大幸福を目指すのは、政治運動の大切な目標だと思います。でも、それは、常に、誰かを犠牲にする。それは少数でしょうが、しかし、少数でも、その人々には尊厳があるはずです。少数の人々でも、その人々はかけがえのない価値をもっている、はずです。それで、イエス様は、立ち上がります。安息日に、病人を癒してしまう。

 今日は、ヨハネ福音書11章45節以下をお読みいただきました。今日の箇所は、イエス様の活動の帰結の部分です。その活動は、ヨハネ福音書9章からずっと続くものでした。

 イエス様は、実に斬新な教えを述べて、人々の反感を買いつつも、際立って目立つ存在となりました。思想家として、一躍時の人となった。それが、ヨハネ福音書8章までの物語です。

 そして、そのあと。イエス様は社会の現実にぶつかります。

 ひとりの盲人が、道端に座っている。哀れな物乞いです。イエス様のお弟子さんが、訊ねます。「この人がこんなに哀れなのは、この人が悪い人だからでしょうか、それとも、この人の両親が悪かったのでしょうか。」イエス様が答える。「そうではない。ただ、神様の御業が現れるために、この人は今こうしているのだ」。そしてイエス様はこの盲人を癒してあげる。奇跡の治療を行う。ただ、その日は、安息日だった。

 この物語から、大騒動が始まります。

 みんなが幸せになるために、一人の哀れな人は、我慢すべきだ。それは、その人が悪いのか、その人の両親が悪いのか、どっちか分からないけれど、とにかく、その人が悪いということにして、我慢してもらうほかないね。仕方ないよね。みんなの尊厳が保たれるためだもの。

 しかし、イエス様は、断固として言います。「この人は悪くない。この人の両親も、悪くない。ただ、神様の栄光が、この人に現れるだけだ。」
そして、イエス様は、安息日の禁を破って、治療の仕事をしてしまう。

 良心的で誠実な「ファリサイ派」の人々は、激怒します。そんな例外を認めれば、欲深な資本家たちが、ぞろぞろと、勝手な理屈をつけて、規制緩和を叫び出すだろう。そんなことをしてもらっては困る。とんでもないやつだ。

 しかし、イエス様は、一人一人の失われた尊厳を回復させていく。全体のことは、たぶん、考えていない。ここで、深刻な衝突がおこります。ひとりひとりの尊厳の回復と、全体の尊厳の維持と。どちらも、一歩も引けない。緊張が、見る見るうちに昂じてきます。

 「ファリサイ派」の人々は、政治的支配階級の人たちと語らい、そして遂に、決断をします。それは、支配階級のトップである大祭司の次の言葉に促される決断でした。

 あなたがたは何も分かっていない。
  一人の人間が民の代わりに死に、
  国民全体が滅びないで済む方が、
  あなたがたに好都合だとは考えないのか。


全体の尊厳を維持するために、一人の人を殺す。それで、すべてが丸く収まる。こうして、イエス様に、死刑判決が出されることになる。

 
 今日は、「灰の水曜日」のことを考えて、話を始めました。首都エルサレムのあらゆる人々が歓呼してイエス様を迎えた、その記念の葉っぱを燃やして灰にするのが、「灰の水曜日」です。そして、この日を以て、レントが始まる。私たちはこの日を境に、イエス様の苦難と死を考える季節を迎える。

 イエス様は、すべての人に歓迎される。それは、そうでしょう。すべての人が、一人一人、尊厳を回復されるのです。こんなに素晴らしいことはありません。私たちは、イエス様の教えを「福音」と呼ぶ。「よきおとづれ」という意味です。イエス様そのものが、私たちにとって、「よきおとづれ」そのものです。イエス様にあって、失われていた尊厳は、一つ一つ、回復する。

 しかし、私たちは、一つの限界にぶつかる。私たちは、尊厳を回復するとき、あるいは、尊厳を確認するとき、あるいは、尊厳を維持するとき、誰かを切り捨てずにはおれない。

 そのことを印象的に語るのが、今日の旧約聖書の箇所なのです。今日の旧約聖書は、「塵人形」が「ヒト」になった、そのあとの物語です。これは、ぞっとする、しかしリアルな神話物語だと思います。

 ヒトは、まさに神と同じく、世界に向き合っています。しかし、神と違って、孤独でいる。だから、神様は、世界に仲間を求めるように、ヒトを促します。ヒトは、世界に向き合う。そして、ヒトは、世界に名をつけます。すると、世界がその名の通りになって行く。実に、ヒトは、神の力をもっているのです。

 確かに、そうだと思います。

 もし人が誰かを「お前は道具だ」と呼べば、その人は「道具」になって行く。恐るべき力です。そして、人が「あなたは尊厳を有した人間だ」と誰かに優しく声掛けするとき、そこには温かな社会が生まれるでしょう。人間の中にある「名づけ」の力は、計り知れない力をもっています。

 しかし、この恐るべき・はかりしれない力は、ヒトを孤独から救うことがなかったようです。ヒトは、その力を発揮するほどに、孤独を深めていった。
考えてみれば、それは当然なのかもしれません。

 私たちは、自分で自分の足を持ち上げることができない存在です。人間の力で、人間の尊厳を確保しようとしても、誰かがそこで切り離される。全員の尊厳を守ろうとするなら、その裏側で、誰かが忍耐を強いられる。人間の力は、人間自身を救うことができない。努力すればするほど、人間全体のどこかに痛みが押し付けられて行きます。そして、それを隠ぺいするべく、また、新しい言葉が紡ぎだされていく。

 あなたがたは何も分かっていない。
  一人の人間が民の代わりに死に、
  国民全体が滅びないで済む方が、
  あなたがたに好都合だとは考えないのか。


確かに、好都合なのです。しかし、そうやって、私たちは誰かを切り捨て、自分たちはいよいよバラバラになり、それぞれ、孤独になっていく。みんなのために、誰かを犠牲にする。誰かの犠牲の上に、自分たちの尊厳を確保する。そうやって、人間は互いに離反し合い、私たちはいつまでも孤独を味わい続ける。

 ここには、人間の根本問題があるように思います。人間は、問題を解決しようとするまさにその時、問題をこじらせてしまっている。はたして、解決は、どこから来るのでしょうか。

 ヨハネ福音書は、意外なことを語ります。

 (大祭司は)イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
 国民のためばかりでなく、
 散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、
 と言ったのである。


バラバラになっていく私たちを、一つの犠牲が集めるのだと、そうヨハネ福音書は語っています。「一つの犠牲」とは何か。それは、イエス様の苦難と死です。それは、最後の犠牲、唯一の犠牲、究極の犠牲です。なぜなら、イエス様は、神の子だから――これが、ヨハネ福音書のメッセージです。

 私たちは、レントを迎えています。それは、「灰の水曜日」から始まりました。それは、人間の移ろいやすい様を、私たちに教えます。そしてそれは、もう一歩の深みにおいて、私たちの現実を教えてくれます。つまり、私たちは、自分たちを救ってくれる誰かを歓呼して迎えつつ、その誰かを犠牲にして、自分たちの救いを確保する。それが、「灰の水曜日」の意味するところです。

 現実に、私たちは、今日も、誰かを犠牲にして、自らの尊厳を確保しています。それが、偽らざる悲しい現実です。しかし、その悲しい現実は、イエス様の犠牲で、もう既に終わっているのだということ。そのことを宣言するのが、教会なのです。

 私たちは、イエス様の犠牲の痕を辿り、イエス様の真似をすることで、この世界に、この小さな教会から、新しい現実をもたらすことができるということ。そのことを、受難節に覚えたいのです。そして、そのことを覚えるとき、本当の意味で、私たちは人間の尊厳を回復することができるのだということ。私たちは先回りしてこのことを喜び、ご一緒に賛美の歌を歌いたいと存じます。

祈ります。


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