第三章 第九節:ケンブリッヂひとつ前へ戻る第九節:ケンブリッヂ フォーサイスが「転機」を迎え、それを乗り越えていった場所が、ケンブリッヂであった。 おそらく1894年に、フォーサイスは、レスターからケンブリッヂへの異動を促す手紙を受け取った 。この手紙には、イングランド・ウェールズ会衆派連盟の主だった人々の署名が添えてあった(註)。会衆主義の原則上、各個教会の人事について、機構としての連盟が介入することはできなかった。従って、この手紙の存在は、フォーサイスにケンブリッヂへの異動を促したのは会衆派連盟全体の意向であったことを示唆している。 _____________________________________________ 註:「手紙」の署名者については、次の通り列挙されている。Dr. Barrett, chairman of the Union; Dr. Paton, Nottingham; Dr. Brown, Bedford; Dr. Parry, Wolverhampton; Dr. Fairbairn, Mansfield College, Oxford; Dr. Dale, Birmingham; Rev. J. Guinness Rodgers, Clapam; and Rev. W. J. Wood, secretary of the Union. _____________________________________________ この手紙は、ケンブリッヂの教会の重要性を強く意識して書かれたものであった。この手紙については、以下のように報告されている。 この手紙は、フォーサイス氏を招いている場所の重要性について強調している。 かの地における教会は、単にケンブリッヂという都市における影響力の故のみならず、 ケンブリッヂ大学における影響力の故に重要な役割を担っており、 相応しい人物がしっかりとその説教壇に立ってもらわなければならないのだ。 この手紙の署名者達がフォーサイスに求めているところは、 単にレスターの教会と同様の重みを持った仕事だけではない。 市と地域のために期待される仕事というよりは、 むしろ、大学と大学の周辺に潜在する可能性故に期待される仕事が、フォーサイス氏を待っている。 フォーサイス氏がこの要請に応じることは、一地方教会の為になるばかりでなく、 この国の全会衆派教会の為に資することとなるのだ。 レスターのクラレンドン・パーク教会は、1894年3月7日、臨時の会議を開いた。この会議において、フォーサイスはこの手紙の要請を受諾することを、教会に伝えた。フォーサイスはレスターでの仕事を4月末日で終了し、三ヶ月の休養をとった後、9月16日、ケンブリッヂのエマニュエル教会に異動する 。 以下、ケンブリッヂでのフォーサイスの様子を纏める。 A.エマニュエル教会 自らの生涯における重要な「転機」に、フォーサイスが新しい職場として臨んだエマニュエル教会とは、どのような教会であっただろうか。 ここで、ビンフィールドの調査が参照される 。 ビンフィールドによると、先ず、「この教会は古い情景に新しい事柄が盛り込まれて」存在していたという。記録によると、この教会は1691年から始まる。その伝統を背景に、七百人収容の礼拝堂を備えた教会堂が、1866年に竣工したばかりであった。更に、この教会においては、ケンブリッヂの「ガウンとタウン」が相調和し、会員は団結し役員は威厳を持っていたという。即ち、大学から来る雰囲気の故に知的刺激が満ち溢れ、同時に、ケンブリッヂの街場で働く人々によって、実際的雰囲気が教会に持ち込まれていた。 フォーサイスの二代前の牧師ワード(James Ward, 1843-1925.)がまさにフォーサイス着任当時ケンブリッヂ大学トリニティ・カレッヂ学寮長であったこと、また、就任要請があった頃の自身の健康状態などから、「フォーサイスは怯んだ 」とビンフィールドは見る。しかし、その頃二百人ほどいた教会員は、フォーサイスを温かく迎えた。 エマニュエル教会の活動の一つに、バザーがあった。これは教会学校活動の一環として位置づけられ、教会の悦びであった。1895年、教会設置二百年を記念したバザーにおいて、教会は『エマニュエル会衆派教会の過去と現在:1691年~1895年 』と題するパンフレットを発行する。このパンフレットに掲載したフォーサイスの論稿「利益と敬神 」から、ビンフィールドはこの当時のフォーサイスの特徴を三点挙げる。 第一は、自由主義的な基調である。ビジネスの世界を宗教から締め出してしまうことは、「人生の半分以上と、ビジネスの世界に住む人々」を破門してしまうことを意味する。第二は、市民的礼拝の再確認である。「私達の教会学校は世俗の保育園ではない。・・・私たちは隣人と、町と、そして公共に奉仕することを目指している。」第三は、政治的領域の縮小である。「社会主義的側面を欠いてしまっては、本物のキリスト教的事業形態を求めることはできない。このような考えが、熱心な人々によって最近語られている。これはここで扱うには余りに大きな問題であるが、一つだけ言うことができるだろう。即ち、道徳的発展を競う局面があるならば、それはキリスト教の歴史の中に、キリスト教の下位に位置づけられなければならない。」 レスターで確認された、教会の内と外が繋がっている様子がここに継続して見られるが、同時に、社会主義への留保が見られる。レスターとケンブリッヂの間にある「転換」と「継続」の一端が、ここに窺える。 B.フォーサイス像とフォーサイス 新天地で病と別離に苦しむフォーサイスを、エマニュエル教会が支えた。1894年9月ケンブリッヂ市内のニューハム・テラス四番地 に転居した頃のフォーサイスの様子を、ジェシーは以下のように述懐する。 ・・・私たちがケンブリッヂに到着して一週間後、母は突然亡くなりました。 このことはほとんど耐えられない程の悲しみとなりました。 それからの三年間、父は学童であった娘とともに孤独の時を過ごしました。 身体的・精神的弱さが、長い父の孤独を厳しいものとしましたが、 父の教会の人々の忍耐と献身は本当に素晴らしいものでした。教会の人々が父を支えたのです。 この人たちは四輪車[four-wheeler]を用意し、日曜日ごとに父を教会へ連れて行ってくれました。 父は教会の人々のうち病人や老人のお宅には訪ねて行きましたが、 それ以外の人々には父のところへ訪ねてくれるように要請し、人々はそのようにしてくれたのでした。 1895年、父の母校アバディーン大学は父に神学博士号を授与することになったのですが、 父は病気の為その授与式に出席できませんでした。 フォーサイスが住んだニューハム・テラス四番地からエマニュエル教会があるリトル・セント・マリーズ・レーン までの道のりは一キロ未満である。当時のフォーサイスの病状の重さと、そして当地の教会員の献身と忍耐の様子が窺える距離である。 フォーサイスとエマニュエル教会の人々との親交はフォーサイスの死まで続いた。フォーサイスとは17年来の友人であるというイェーツ(Yates, Thomas.)はフォーサイスへの追悼文の冒頭以下のように語っている。 先週の日曜日、私はH・C・カーター牧師からエマニュエル教会牧師の責を引き継いだ。 赴任最初の礼拝において私がフォーサイス博士に言及したところ、 礼拝後、教会の指導者や会員の多くから、博士への親愛と恩義についての告白が語られた。 これは、どれほど博士の影響があり続けていたのかをよく表す出来事であった。 とりわけ、私がフォーサイス博士との間に得てきた長年の友情から予想していたような、 親密で人間味溢れる感じをまさにそのまま語っていた人が一人二人といることに、私は気が付いた。 博士自身はと言えば、ケンブリッヂで経験したことを決して忘れたことがなく、 最後までそのことへの深い感謝の言葉を語ろうとしていた。 当時深い悲しみのうちにあった博士は、この教会の人々によって支えられ、慰められていたのだ。 そして他方、今博士の死に際して判ることは、 博士が多くの人たちにとって助け手であり慰め手であった、ということである。 1920年にエマニュエル教会を訪ねたケイヴは、そこに尚フォーサイスの残した影響が感じ取れたと言う 。エマニュエル教会牧師としてのフォーサイスについて証言するゼルビーの以下の言葉は、フォーサイスの人柄がエマニュエル教会の人々の心を如何に掴んだかを物語るものである。 ・・・フォーサイスの後継者としてケンブリッヂへ赴任するまで、 私は牧師としてのフォーサイスの本当の力量を知ることはなかった。 彼は容易に拭い難い足跡をこの教会に残していたのだ。 あらゆる種類の男女が彼の説教から助けと慰めを得ていた。 彼の辛辣で警句的なスタイルは強く知性に訴えかけたが、同時に彼は霊的な深みと洞察を持っていた。 これによって彼は、彼の説教を聴く非常に謙遜な人々の中から応答を引き出していた。 この点で彼は全ての牧師達の羨望を集めていたことを私は知っている。 確かに彼は愚か者に忍耐を強いられることを好まなかった。 しかし、彼の中には驚く程豊かな人間への関心と共感があった。 それはあらゆる必要を満たすべく溢れ出てくるものであった。 ゼルビーの証言から、フォーサイスは一見した様子と実際の人柄との間に乖離があったことが推測される。1921年の文書の中で、イェーツはフォーサイスと初めて出会った時のことを以下のように回顧している。 私が博士と出会ったのは、だいたい十七年前である。 初めて博士に会う時、私は不安を覚えていた。 と言うのも、私は博士をただ著書でのみ知っていただけであったからだ (著書は僅かしか博士について語っていない)。 その他には、数年来博士が表明する公式声明に違和感を覚えていたことと、 それから博士の名声について、その才能と共に知っていただけであったが、 これらの事柄はむしろ、私にとって大変重苦しく感じられたのである。 しかし実際の博士は、私の不安を全て脇に追いやってしまった。 イェーツの記憶が正しければ、その「不安な出会い」は1894年、フォーサイスがエマニュエル教会に着任した年である。この頃、「文字や噂から知られるフォーサイス像」と「実際のフォーサイス」との間に乖離があったことが、イェーツの証言から判る。 ケンブリッヂ時代のフォーサイスの人物像は、複雑な相貌を示している。 牧会者としてのフォーサイスについて詳細な検討を行っているビンフィールドは、「反骨」にフォーサイスの特徴を見て取る 。そしてケンブリッヂにおけるフォーサイスの著作『教会の憲章:非国教会的霊的原理についての六講 』と『ローマ・リフォーム・リアクション:宗教的状況についての四講 』に「エドワード・マイアル の再来のような」徹底した反アングリカニズムの姿勢を読み取る 。 ビンフィールドと対照的な理解を示すのは、ケイヴである。ビンフィールドが参照したものと同じケンブリッヂ時代のフォーサイスの著作に付いて、ケイヴは以下のように述べる。 この頃、英国教会と自由教会との関係は今のような友好的な状態からは程遠いものであった。 この時期にケンブリッヂにいたフォーサイスは二冊の本を書き自由教会の原理を擁護した。 『教会の憲章』と『ローマ・リフォーム・リアクション』である。 当時は、単に公然と非難するだけの文書が、 自由教会の指導者達からの絶賛を容易く獲得していた時代である。 フォーサイスはそうした安易な態度の一切を慎んだ。 この時期に書かれた二冊の著作は礼儀正しい論争というものの手本となっている。 これらの著書は毒舌と不公正な発言を取り扱わず、ただ原理だけを扱った。 言い換えれば、新約聖書に対する教会の概念と宗教改革の教理における神の自由な恩恵との関係を、これらの著書は問題としていた。 ビンフィールドとは異なり、熱心な会衆主義に立ちながらも排他的教派性を持たない姿勢を、ケイヴはケンブリッヂのフォーサイスに見る。 ビンフィールドよりむしろケイヴの理解の方が、つまり、「徹底した反アングリカニズムの姿勢」よりむしろ「排他的教派性を持たない姿勢」の方が、ケンブリッヂ時代のフォーサイス像として支持し得ると、我々は考える。ここで、ソーター(Souter, Alexander, 1873-1949.)の証言をその根拠として提示することができる。 1893年から1897年の四年間、ソーターはケンブリッヂ大学キーズ・カレッヂで新約聖書ギリシャ語を学び、先祖代々の会衆派信徒としてエマニュエル教会に通った。当時、エマニュエル教会のオルガンの音色 に魅せられてはいたものの、結局自らの教会との関わりは惰性によるところが大きく、キリスト教への疑問も消えないままであったとソーターは告白して、以下のように述べる。 英国国教会へ教会籍を移すようにという、非常に強い招請を私は感じていた。 私の親類縁者も国教会へ移っており、自分もそれに倣ってみようかという誘惑があった。 しかしある日曜日のことである。 朝の礼拝で説教するフォーサイスが、 自分の父祖達の教会を離れて他の教会に行ってしまう人々のことを話していたのだ。 フォーサイスは、そうした方向に向かう強い衝動が確かにあろうことを否定しなかった。 それでも、 我々は皆、自らの先祖の教会に対して負債を負っており、 それは我々にとって支払いきれないほど大きく、 例えば 恋人への愛情故に教会を離れるような薄弱な理由での転籍はよこしまなことだと主張していた。 当時の私に、どこかへと引っ張って行ってくれるような恋人がいたわけではなかったが、 実は、アングリカンがもつ礼拝の素晴らしい魅力に惹かれて教会を変えようと思っていたのである。 しかしこの説教を聴いた時から、もう私は迷わなくなった。 1877年に結婚した際、フォーサイス自身、妻マリアを英国国教会から会衆派教会へと「転籍」させた「よこしま」であったことを思うと、このフォーサイスの言葉にはユーモアが感じられる。ケンブリッヂ大学に会衆派のカレッヂがなかった当時、大学に集う若き会衆派信徒たちの信仰を繋ぎ止める役割を期待されていた 中でのユーモアである。ここから、ケイヴの見立てるフォーサイスの姿に説得性が与えられる。 ゼルビーあるいはイェーツの証言から推測するに、ケイヴとビンフィールドの違いは、フォーサイスを直接知っている者とそうでない者の差異から生じているものと思われる。 C.フォーサイスの文体 エマニュエル教会におけるフォーサイスの説教には、フォーサイスに特徴的な文体が指摘されている。ポリットは以下のように述べる。 フォーサイス博士は大学町に最適なタイプの非国教会牧師である。 彼の論争術と彼の説教家としての能力が大学人と街場の人々から敬意を集める一方、 円熟した彼の学識と文化理解はケンブリッヂの権威筋に一目置かれるものとなった。 彼は所謂「ありがち」な説教の詐術とは無縁の説教家である。 彼の説教は理解を求めるもので、情感に訴える類のものではない。 彼は説教のあらゆる言説に思想を詰め込み、独特の言い回しを盛り込んだ。 彼の説教スタイルは雄弁で修辞的なものと言うよりむしろ、簡潔で警句的なものである。 彼は説教壇から大胆に抽象概念を語り、説教が難解になることをまったく恐れなかった。 「呑気な」教会出席者がエマニュエル教会にいつも「立ち寄る」ということはなさそうである。 というのも、フォーサイス博士のキリスト教のスタイルに、そうした人々を惹きつけるものはないからだ。 思想の連鎖によって綿密に編みあがった論拠が、立て板に水のような彼の説教を構成している。 諸概念が連鎖的に連なり、連鎖する思想一つ一つが本質的な内容を持っている。 それがフォーサイス博士の説教である。 フォーサイス博士を理解した人は、考えなければならないということを教えられ、 スコットランド人が「アップ・トック[up-tak]」と呼び習わすものの中に即座に投げ込まれる。 と言うのも、フォーサイス博士は陳腐な言い回しを一切用いず、 説教において自分自身を繰り返し語るということを、ほとんどしなかったからだ。 こうしたフォーサイスの文体はエマニュエル教会の人々に強い印象を残した。ビンフィールドは以下のように報告する。 当地での教会活動の記憶は長く残った。 肉親を亡くした会員に、フォーサイスは深い同情を寄せ、 その豊かな言葉の能力を用いて、慰めの言葉を葉書に書いて郵送した。 その言葉はケンブリッヂの友人達の間で煌めき、フォーサイスの説教の難しかったことを思い出させた。 人々の回想の中でこの思い出は薄まることがなかった。 (中略) フォーサイスの著作に顕著に現れている、対句様式の上に逆説を重ねるそのスタイルは、 どんな討論の姿とも異なっており、記憶の中にきれいに収めておくことができるものではなかった。 フォーサイスの仲間がそのスタイルを薄情にも「霧の中の花火」と呼んだ所以である。 (中略) 1897年にサウサンプトンから転居してきた家族の一人が回顧して語ったことがある。 「P.T.F.の説教についての私の主な記憶は、私が帽子を取り、 母の肩に頭をもたせ掛けて寝ていた時のことしかない! ――このことは認めざるを得ない。 しかし、大人達の会話から後に知ったことだが、 彼の説教には聞いておくべき価値が豊かにあったのだ ――そして私は、彼が教会を去る前に、彼の説教を聴き始め、 彼の語りの背後にある力を感じるようになった。」 ケンブリッヂ時代のフォーサイスの著書は五冊 ある。これらに寄せられた書評の複数 が、その文体の晦渋さや対句様式の多用による主張の偏り等を指摘している。これは、1893年のエッセイ「啓示とキリストの人格」に寄せられた厳しい批判以前には見られなかった特徴である。このことから、所謂フォーサイスの文体は、レスター最後の数年のうちに始まり、エマニュエル教会で確立したものと考えることができる。 D.回復 教会の人々の献身的支えによって、フォーサイスの健康は少しずつ回復していった。1901年の様子を、ストッダートは以下のように叙述する。 今でも博士は病から完全に回復したというわけではない。 しかし博士の健康は確実に改善されてきた。 博士の友人たちは、間もなく従来どおりの元気を取り戻すだろうと信じている。 今から三年前に博士は再婚したのだが、この二人目の妻は博士の家庭の幸せを完全なものとした。 1897年9月25日、フォーサイスは三十一才のアイソン(Emily Bertha Ison)と再婚する 。アイソンが如何にフォーサイスを助けたかについて、ジェシーは以下のように述べている。 病から父を助けたのは、私の継母バーサ・アイソンでした。 彼女は父よりもずいぶん若く、その外見や物腰は素晴らしく魅力的で、 信じられないほどのヴァイタリティー、豊富なウィット、そして主婦としての天性の才能を併せ持った、 うっとりとさせるような人でした。 多くの会衆に責任を負っているデリケートな牧師を励ます役割は、彼女にうってつけでした。 そして彼女は自分の役割を本当に見事にこなしました。 彼女が父に新しい持続的な生命を与えたので、父は失った熱意を再生させることができたのです。 父は決して強靭な人にはなれませんでした。 それでも、彼女の献身的な介護によって、あるいはもっと単純に彼女の魅力と人格によって、 父のその後の二十四年間の偉大な業績が可能となったのです。 彼女が部屋に入ってくる時、父の顔が明るくなるのを見るのは、とても幸せなことでした。 父の著作の一冊には次のような献辞が書かれています。 「妻自身が知っている以上に、そして私が語り得る以上に、 私のしようとしている全ての事に対して貢献してくれた、我が妻へ」。 ビンフィールドはエマニュエル教会に残された1894年の議事録から、「多くの会衆に責任を負っているデリケートな牧師」らしい言葉を以下のように報告している。 フォーサイスはシプリー(スプリングウッド)、ロンドン(ハクニー・セント・トーマス・スクエアー)、 マンチェスター(チーサム・ヒル)、レスター(クラレンドン・パーク)、 そしてケンブリッヂ(エマニュエル)で牧師の任に付いた。 最後の一箇所を除いて、これらは全て郊外の教会であった。 自身の経歴を振り返り、 「最後の一箇所を除いてどの教会の牧会も希望のない仕事であった」 とフォーサイスが述懐したことがあった。 即ち、1894年の時点では、フォーサイスは自らの過去について否定的な思いで満たされていた。 しかし、1901年ストッダートの取材に応えるフォーサイスからは異なった様子が窺える。 1900年になってから、フォーサイスは郊外や農村の教会を見て回るようになった。ストッダートによると、「そうすることが、フォーサイス自身の健康にも良い効果を与えているのだという。」そうして得た知見から、フォーサイスは「教会に足を運ばない階級の人々が、かなりの範囲で、教会の活動と無関係なままに置かれ、一方で、『忠実な人々』と呼ばれる人々の間では教会が目覚しい働きをなしている」様子を見て取り、とりわけ農村における教会の活動に可能性を見出している。そして郊外の教会について、そこは「他のどこよりも硬い土地」のようであるが、同時にそこには「教会員の静かな成長」が期待できると述べる。心身の回復と共に、自らの過去に対して受容する余裕が、ケンブリッヂにおいてフォーサイスの内に育まれたのである。 ひとつ先へ進む |