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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

第6回 信仰の戦い(前編)

第6回:信仰のたたかい(前編)

1.はじめに

 今日から、教科書の第三章に入ります。今日は、その前半、17~18頁をご案内するのが、私の仕事となります。

 まず、冒頭に「信仰のたたかい」という標題が付けられています。「信仰」というのですから、何かを信じているのでしょう。もちろんこの教科書は「キリスト教の歴史」という題をもっているのですから、ここで語られているのは「キリスト教の信仰」だと類推できます。「キリスト教」というのは、「イエスをキリストと信じる宗教」です。「キリスト」というのは、ギリシャ語で「救い主」とか「解放者」という意味であることは、既に御存じのとおりです。

 「キリスト教」というのは、通常、「平和主義」だと理解されてきました。なぜかというと、イエスという人が、極端な「平和主義」を唱えたからでした。イエスの教えは、たとえばこんなものです。「あなたの右の頬を叩かれたら、左の頬を出しなさい」。あるいは、「あなたと仲良くしてくれる人を大切にしたところで、そんなことは当たり前だ。よく聞きなさいよ。あなたの敵をこそ、愛して大切にしなければいけない。」キリスト教徒というのは、こんなことを教えるイエスを「キリスト=救い主」と信じている人々です。キリスト教徒たちは、イエスを自分の師匠と(勝手ながら)考えて、お師匠様であるイエスの言葉を何とか実行しようとする。だから、キリスト教徒は本来、「平和主義」となる。

 でも、「平和主義」だと、舐められるでしょうね。やっぱり、やられたら、やりかえさないと。理想ばかり言っていても、しょうがない。毅然とした態度を取ることも、時に大切だ。

 確かに、毅然として戦っている様子が、17頁の冒頭に引用されている短い言葉の中に読み取れます。クインティトス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌスという人の言葉。この人は、2世紀ごろの北アフリカの人で、キリスト教会の偉いお坊さんで、とてもエキセントリックな物言いをするので有名な人です。この人、どうも、戦っている様子です。戦いは、敵(おまえ・汝)と味方(俺・我々)に分かれて行われる。

 テルトゥリアヌスの言葉はこんな感じです。「われわれを拷問にかけ、うち砕け。われわれの数は、汝が刈りとれば刈り取るほど、増し加わるだろう。」――ここで、「刈り」という言葉に注目しましょう。使われている漢字は「刈」であって、「狩」ではない。「狩」は、一匹の獲物を尋ねて苦労するゲームです。「刈」ということはつまり、草を刈り取る感じで、広範囲に、徹底的に、好き放題、キリスト教徒を「刈り取る」。草と違って、キリスト教徒は人間ですから、「刈り取り」をすれば、血が流れる。でも、テルトゥリアヌスはこう言います。「キリスト教徒の血は、彼ら(つまり敵である「汝」たち)の収穫の種である」――殺したければ殺せ、大量に殺せ、やりたいだけ殺せ。でも、殺せば殺すほど、我々の数は増えるぞ。増えれば、さらにお前たちの「刈り取り」も増えるだろう。そして更に、我々は増えるのだ――そんな、実に挑発的で大胆な言葉が、ここに書かれています。この背景には、確かに、はげしい「信仰のたたかい」があるのでしょう。

 「信仰」も、時に、戦いを強いられることがあるようです。でも、「信仰のたたかい」は、たぶん、普通の「戦い」とは性質を異にしている筈です。今日は、そんなことをご一緒に考えていきたいと思います。


2.「変人」「人民の敵」

 突然ですが、私は、皆さんに「敬語」を使って話をいたします。これは、たぶん、珍しいことではないでしょうか。普通、皆さんは教師に敬語を使って話すことはあっても、教師から敬語を使って語りかけられることは、あまりないのではないでしょうか。通常、高校の先生は、生徒諸賢に強い言葉・威圧的な言葉を用いる。それは、ある意味で合理的なことです。それは、学校の秩序を維持し、教育成果を上げるために必要なこと、でもあるからです。

 岩本茂樹という人が、『教育をぶっとばせ』という本を書いています。文藝春秋社の新書で、安い本です。でも、ものすごくスリリングな本です。

 岩本さんという人は、もともと関西圏の小学校教諭でした。しかし、この方、「教育経験を積みたい」という願いから、中学校や高等学校の先生を歴任する。そして、最後の難関として「定時制高校」の先生をやってみようと、志します。でも、周りの仲間は皆、「やめとき」と説得してくる。そちょうどそのころ、この方が働いていた関西圏の学校仲間の間では、大変な「事件」が起こっていた。その「事件」のことを思って、岩本先生の仲間は「やめとき」と、真面目に説得しようとしました。

 「事件」というのは、こういうことです。

 夜間定時制課程・柏木高校の1年生・真木裕也という男子生徒が事件の中心人物。この男子生徒は、「茶髪に、短ランと呼ばれる短い丈の学生服と、裾を絞っただぶだぶのズボンに身を包んで」登場します。彼は、ある日、担任の先生を殴り倒す。高等学校では、「教師に暴力を振るう生徒は退学」というのが常識。従って、真木さんは一発退場、のはずでした。しかし、その「常識」はもろくも覆されてしまいます。

 担任教師を殴ったという連絡を受けた「真木さんの父親」が、すぐに学校に駆け付けてくる。アメ車ムスタングで、轟音を立てて。さっそうと降り立つ父親は、ステテコに腹巻きという装束。職員室の扉を勢いよく開けるなり、「うちの裕也が、先生殴ったらしいな。殴るように仕向けたのは誰じゃ! よぉ!
そんなことさせた教師が悪いんとちゃうんか、ええっ! 学校が問題やろ言うとんね! ちゃうんか! どう責任とってくれんねん。」

 これで、退学処分は吹っ飛ぶ。これ以来、この学校は、誰の手にも負えないような混乱状況になってしまった。

 まさか、そんな学校に配属されることはないだろうし、まさか、その学校のそのクラスの担任にさせられるなんてことはないだろうと、そう考えた岩本先生は、仲間たちの忠告・説得を聞かずに、夜間定時制高校への転勤願を出してしまいます。そして、その転勤願はあっさり受理されて、気がつくと、「そのクラス」の担任になってしまう。そうして、この『教育をぶっとばせ』という本は始まります。

 冒頭、授業初日の最初の場面。クラスのドアを開けた岩本先生は、突然、真木裕也さんからこんな声をかけられる――「おい、岩本。百円やるさかい、ジュース買うてこい」。

 皆さんも、もし大学に進学して、教師になろうとしたら、あと5年後には教育実習生となって学校現場に行くのです。そこでそんなことを言われたら、どうしましょうね。無視、しましょうか。そうしたら「ヘタレじゃ」と、侮蔑される。買いに行きましょうか。そうしたら、今後ずっと、「僕」として扱われる。

 岩本先生はどうしたか。気になる方は、どうぞ、本を買って読んでみてください。スリル満点の実録学校物語が展開します。

 大切なことは、つまり、こういうことです――教師が生徒に舐められてしまっては、学校は成り立たない。教師は生徒に舐められてはいけない。舐められるようなことをする教師は、あるいは、「学校の敵」である。

 もし、皆さんのクラスが、岩本先生のクラスのようになったらどうなりますか。間違いなく、東北学院中学・高等学校の進学率はガタ落ちになるでしょう。そして悪い噂が立って、あっという間に入学志願者が減って、学校は潰れてしまうことでしょう。絶対に、教師は、生徒に舐められてはいけないのです。だから、教師は生徒に厳しく・怖く接しなければならない。

 でも、私は、どうも、そうできません。私は、キリスト教徒なので、イエスの弟子なのです。私のお師匠イエスは、「あなた方のだれも、先生になって、偉ぶってはいけないよ」と厳しく教えています。困った師匠です。しょうがないから、私は皆さんに敬意をもって接する。うるさくされれば、静かになるまでじっと待つ。待つと、あるいは、皆さんは「つけあがる」かもしれませんね。そうすると、次にお師匠イエスはこんなことを言う。「右の頬を叩かれたら、左の頬を出しなさいよ」。しょうがないから、「つけあがって」いよいよ授業を始めようとしない皆さんに、私は丁寧にお願いをする。「すみませんが、静かにして頂けませんか」――「すませんが」! どういうことでしょう。誰が、誰に、謝っているのでしょうか!――でも、しょうがないから、そうする。そうしたら、もしかすると、いよいよ生徒諸賢は私を「舐めて」くるかもしれない。いよいよ、教室は混乱するかもしれない。そうしたら、きっと、私は「クビ」になるでしょうね。仕方ないことです。生徒諸賢を「つけあがらせ」、そして先生を「舐める」ように助長する、そんな教師は、「学校の敵」です。

 もしそうなった場合、いよいよ授業を妨害する生徒がいれば、「その生徒」は私の「敵」ということになりましょう。私のなけなしの仕事場を、私から奪い去るのが、「その生徒」なのですから、私にとってその生徒は「不倶戴天の敵」となる。でも、お師匠であるイエスはこう言う――「あなたの敵を愛しなさい」。

 さあ、困ります。しょうがないから、クビになってでも、私は「その生徒」をいよいよ大切にしなければならない。

 以上の事柄は、もちろん、フィクションです。どうぞ、御笑いになって気軽に聞きとばしてください。でも、同様のことが、本当に起こった様子です。時代は、今から2000年ほど前、古代ローマ帝国でのことです。

 イエスは、たとえば「愛」とか「平和」とか「平等」といったことを教えた。イエスを師匠と仰ぐキリスト教徒たちは、これを真面目に守ろうとする。すると、ローマでは「変人」となる。だって、大ローマ帝国はこれからいよいよ発展しなければならないのです。戦争に勝って、世界を統一し、いよいよ豊かにならなければならない。「平和」なんて、とんでもない。そして、征服した人々を奴隷にして行くのですから、「平等」なんて、とんでもない。そして更に、奴隷を酷使して初めて国は豊かになるのですから、「愛」なんて、とんでもないことです。

 ですから、イエスを師匠と仰ぐキリスト教徒は、最初「変人」と思われ、バカにされました。でも、バカにされている間はまだよかった。いつの間にか、キリスト教徒はローマをダメにする奴、つまり「人民の敵」と、呼ばれるようになる。

 そうなると、事態はどんどん悪化して行きます。

 人々は、「気持の悪い連中」として、キリスト教徒を見る。そして、いつしか人々は、キリスト教徒の悪い噂話(根も葉もないもの!)を始める。教科書には「幼児を殺して食べている」とか「驢馬の頭を拝んでいる」とかいった事柄が書かれていますが、更には、「人間の血を酒のようにして飲んでいる」とか、「フリーセックスの乱交パーティーをしている」という噂も立てられた様子です。

 でも、キリスト教徒は、いよいよ真面目に「敵を愛そう」としたようです。一方的な憎しみを燃やす周囲の人々を、大切な隣人として扱おうとする。そうすると、いよいよ「気味の悪い人々」ということになる。悪い噂は広がり、人々の気持ち悪さは増して行く。


3.皇帝ネロ

 そうした中で、ネロという人物がローマの皇帝に就任します。このネロという人物は、ローマ史上屈指の学者として誉れ高いセネカという人の教育を豊かに受け、人々の期待を一身に背負って、皇帝になりました。たしかに、この人は頭が抜群に切れる人であったようです。しかし、頭が良すぎたのかもしれません。いつしかこの人は、人々から恐れられる「恐怖の皇帝」となります。

 ある日、ネロが皇帝になって10年ほど経った頃、突然、ローマの市街に大火災が起こります。そして、その火事の後、ローマ市街再建の時、ネロが長年願ってきた大神殿が、ローマ市街の一等地に建つことになりました。ネロは、この神殿をずっと建てたいと願ってきたのですが、土地を取得できずに、なかなかうまくいかなかった。その念願が、火事を利用して、実現した――それで、人々はいろいろ噂を立てます。あの火事は、ネロがやったのではないか。神殿を建てたかったから、わざと、ローマに火を放ったのではないか。

 本当にネロが火事を起こしたのかどうかは、わかりません。でも、とにかくネロは困りました。あらぬうわさを流されては、皇帝の権威にかかわる、ということです。そこで、ネロは、ローマの警察を呼んで、何かを命令します。ローマの警察は、突然、キリスト教徒の家に向かう。そして、キリスト教徒を「放火犯」として逮捕し、そして、死刑にして晒しものにします。すると、人々はこう思う――「なんだ、やっぱりこいつらだったのか。いつか、何か、大変なことをするんじゃないかと思っていたよ。なんたって、気持ちの悪い連中だもの。なんたって、人民の敵だもの。あぁ、皇帝ネロは、犯人ではなかったんだな。これは失礼した。よくぞ真犯人を捕まえてくれた。皇帝万歳!」

 ネロは、事がうまく行ったことに喜びながら、その反響の大きさに驚いてしまいます。これは、使える――頭のいいネロです。何かを考えた。

 それから、次々とキリスト教徒が「テロリスト」として逮捕されていきます。そして、逮捕された人々は、素っ裸にされて、円形競技場に連れて行かれ、群衆の見ている目の前で、空腹にしておいたライオンと戦わされ、無残に食い殺されたりする。あるいは、夜の円形競技場に連れていかれて、杭に縛りつけられて、頭から油を流しかけられ、火をつけられて「人間松明」にされる。この「人間松明」を明りにして、ネロと貴族たちは豪華な晩餐会を催す。
 こうした事柄は、ネロの人気向上に役立ちました。なんと言っても、「気持の悪い奴ら」「いつか何かしかねない、人民の敵」を、次から次へと逮捕して、これ見よがしに惨殺して、見世物にしてくれるのです。「ネロこそ正義の味方」――こうして、キリスト教徒は「刈り取られて」いくのでした。


4.「権威」と皇帝礼拝

 しかし、ネロがめちゃくちゃをしている間に、だんだんとローマは傾き始めます。外国からは敵が侵入してくる。帝国内では反乱も起こる。一揆も起こる。経済も停滞する。ネロの頃は、まだよかったのですが、ネロの後、次々と皇帝が入れ替わるようになり、ローマの政権は弱体化します。そして、ネロから6代後の皇帝ドミティアヌスの時代になると、ローマは本当に大変な内憂外患に苦しむことになる。しかも、このドミティアヌス帝は、戦争が下手でした。連戦連敗。困ってしまいます。

 支配者というものは、こういうときに、どうしても暴走します。私たちの日本だって、いつ支配者が暴走するか分からない。皆さんがもうすぐ出て行く社会の、たとえば会社や役所の支配者もまた、時には暴走する。その暴走をどうやって見極めるか。そしてその暴走にどう対処したらよいか。そのことを、今日は覚えて帰って下さい。

 今日の教科書の最初、17頁に、“使徒パウロの「ローマ人への手紙」の言葉”が書かれています。「使徒」というのは、「イエスの直弟子」のことです。直弟子は、その他の弟子(普通のキリスト教徒)よりも、イエスの教えをよく知っている。だから、「使徒」はキリスト教徒一般から尊敬される。本当は、パウロはイエスの直弟子ではないのですが、既にお話しした通り、幻覚の中でイエスに出会ったのだと、一所懸命そう言うものですから、いつしかパウロも「使徒=イエスの直弟子」として扱われるようになりました。

 その「使徒パウロ」が、ローマのキリスト教徒に書き送った手紙が「ローマ人への手紙」なわけです。聖書は、こうした文書を66冊まとめて綴った書物(小さな図書館)であるわけです。

 さて、この「ローマ人への手紙」の中に、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と、パウロが書いている。「使徒」が書いたことですから、キリスト教徒はこれを真面目に受け取る。では、「権威」とは何か。

 「権威」と似た言葉に、「権力」という言葉があります。それから、「権利」という言葉もある。これを並べてみれば、それぞれの意味が見えてくると思います。

 「権威」とは、つまり、「偉い」ということです。
 「権力」とは、つまり、「強い」ということです。
 「権利」とは、つまり、「正しい」ということです。

 「上に立つ権威」とは、つまり、「偉い立場にある人」ということ。それは、「偉い」という役割を与えられている人のことです。たとえば「先生」は、「生徒」に学問を教えるために「偉い」役割を与えられている。でも、それは「教室」や「学校」の枠内でだけの「役割」です。決して、その枠を超えて「偉い」わけではない(「先生」が家にまで来て「生徒指導」をしたら、きっと、皆さんのご両親は警察を呼ぶことでしょう。)

 ある枠組みの中にあってはじめて、人は「偉い」のです。その「枠組み」は、人々の心によってつくられます。みんなが「偉い」と思えば、そこには「権威」がある。でも、人々の心は、神様にしかわかりません。それで、時々、皇帝のような人は困ってしまう。人々は本当に自分のことを「偉い」と思っているだろうか、と、疑心暗鬼になります。

 実際、戦争に負けたり、経済政策が失敗したりすると、人々の心は離れて行く。「あの皇帝は、前の皇帝と違って、たいしたことないな」と人々が思い始めれば、皇帝の「権威」は失墜して行く。これは困るのです。でも、皇帝は神様ではないから、人々の心までは支配できない。神様ではないから、しょうがないのです・・・でも、困っている皇帝は、そう簡単に「しょうがない」と諦めることができない。

 皇帝は、時に「権威」を失いますが、「権力」はいつだって手中に収めています。「あいつを殺せ」と言えば、すぐに、軍隊や警察が「あいつ」を殺してくれる。そうしていい「権利」を、皇帝は持っている。つまり、軍隊や警察やお金をどう使っても、皇帝は「正しい」とされる。皇帝はあらゆることをする「権利」をもっているし、実際に「権力」を行使して、あらゆることができる。

 だから、失敗を重ねて「権威」を失いかけて困ったとき、皇帝は、「権力」を使い倒して「権威」を回復しようとします――どうやって?――簡単です。神になればいい。国の偉い宗教家を呼びつけて、「今日から私は神になるので、よろしく。これからは、私を神として、礼拝するように。皇帝礼拝です。みんなちゃんとするんですよ。」――と、そう言えばいい。そう言う「権利」を、皇帝は持っている。そして、それに反対する人を片っぱしから殺す「権力」も、皇帝は持っている。

 実際、皇帝ドミティアヌスは、そうしたのでした。つまり、自分を「神」にして、皇帝礼拝をローマの人々に強要した。これで、「権威」は永遠に保たれる。これで、「権力」と「権利」と「権威」のすべてを手中に収めて、安心できる。よかったよかった。

 ところが、予測できない事態が起こります。「権力」をちらつかせて脅しても、ぜんぜん気にしないで、「あんたは神ではない」と言い募る不遜な連中がいる。とんでもない奴らだ。すぐに連れて来て、見せしめに殺して晒せ――なに、まだいるのか、それも連れて来て殺して晒せ――なに、まだいるのか、どんどんやれ。徹底的に、見せしめにしろ。

 「権力」を恐れないで、ひたすらに「あんたは神ではない」と言い続ける人々が、あとからあとから出てくる。それは、つまり、キリスト教徒たちでした。この人たちは、イエスの教えを守って、「天の神様=奴隷を解放する神様」の他には神はいないのだと言い、その神様こそイエスだったのだと、そう言って譲りません。この強情な人々は、しかも、そのことを隠そうとすらしない。他の宗教の人々が、殺されては困るからということで、一応「皇帝は神ということで・・・」と、表面上はおとなしくしているのに、このキリスト教徒たちだけは、頑として言うことを聞かない。しょうがないから、皇帝はこのキリスト教徒たちを次から次へと殺して行く。途中でやめるわけにはいかない。やめたら、舐められる。舐められたら、自分の「権威」は失墜してしまう。

 でも、キリスト教徒たちは、「右の頬を叩かれたら左の頬を出す」作戦で臨みます。困ったことです。「殺せるものなら、殺してみろ」と言わんばかりに、次から次に、前に出てくる。きりがない・・・おかしいな。いつか、キリスト教徒は根絶やしにできると思ったら、なかなか数が減らない。というか、数が増えている?!

 こうしてひたすらに殺されて行くこと、それを「迫害」と呼びます。「害をもって迫ること」ということです。この「迫害」は、いつか、終わるはずでした。すべてのキリスト教徒を根絶やしにすれば、それで終わる。でも、この迫害は、なかなか終わりませんでした。実は、迫害すればするほど、キリスト教徒は増えて行く。不思議なことです。でもこれには、わかりやすい理由がありました。

 ローマの心ある人たちは、本当は、皇帝が「神」になることを、決して愉快に思っていません。皇帝が失政を重ねたから、権威が落ちてきた。それなのに、「神」になって責任を逃れるのは、ずるい。みんな、そう思います。でも、そう言ってしまったら、「権力」が怖い。殺されるかもしれない。だから、みんな黙っています。黙って、面従腹背の作戦で、とにかくお茶を濁してやり過ごす・・・と思っていたら、トンデモナイ連中がいる。自分の宗教に本気で取り組んで、自分たちのお師匠の言うことを本気で守ろうとして、「皇帝は神ではない」と言って譲らない連中。この人たちは、死をすら恐れない。これはすごい。大したものだ――そう思った人々は、尊敬の証しとして、殺されたご主人の家族や奴隷たちを、我が家に引き取ろうじゃないかと思い立つ。「おい、息子よ、よく見てみろ、あれが本物の宗教家だよ、すごいね、お前もあんな風な立派な人間になるんだよ、なに、あの人たちの教えを勉強してみたい?いいだろう。しっかり勉強しなさい」――こんな会話があったかどうかは定かでないのですが、とにかく、人々はキリスト教徒の姿に感動し、そして、キリスト教徒になる人が続発したことは、確かな様子です。今日の教科書の冒頭に掲げられた三行の激しい言葉、これはテルトゥリアヌスの言葉ですが、このテルトゥリアヌスもまた、キリスト教徒がひたすらに迫害に耐える様を見て感動し、そして自分自身もキリスト教徒になった、そういう人だったと伝えられています。


5.まとめ

 以上が、「信仰のたたかい」の内容です。教科書の17~18頁半分までの内容は、以上のことを理解しておくと、わかってくると思います。

 キリスト教徒だという理由で次から次へと殺される。そんな時代は、数十年間続きます。この「信仰のたたかい」のなかで、大変有名な、そして大変感動的なものが一つ、18頁に書いてあります。86歳のポリュカルポスというお爺さんのお話。「小アジアのスミルナ」という場所で、大変偉いキリスト教のお坊さんだった人です。「小アジア」というのは、つまり、トルコ半島のこと。そこで、キリスト教徒を殺さなければならなくなりました。でも、現場の役人たちは、そんなこと、やりたくない。それで、ローマの役人は、この偉いお坊さんにお願いをします。「あなたが、“イエスのくそったれ”と言ってくれれば、それでみんなを解放してあげられる。考えてくれ。みんなを助けたいだろ・・・。」でも、このおじいさん、頑固一徹でこう言います。「私は86歳まで生きてきて、いろいろあって、大変だったけれど、イエスを信じて幸せにやってきた。86年も、イエス様にお世話になったのに、いまさら、裏切ることはできませんよ。殺したければ、殺しなさい。」それで、しょうがないから、このお爺さん、見せしめとして生きたまま火で焼かれることになります。でも、なかなか死なない。きっと、ギャーギャーと大きな声を上げて苦しんだことでしょう。でもなかなか死なないので、しょうがないから、ローマの兵隊はこのお爺さんを槍で突き刺して殺したのだそうです。

 こうした「信仰のたたかい」は、現代の私たちに、とても大切な教訓を残しています。それは、絶対に勝てないような戦いに巻き込まれたとき、どうしたらよいかを教えてくれるものです。

 教科書18頁の7行目の終わりに、その「たたかい」の仕方が書いてあります。それはつまり、「決して屈服することなく、抵抗することなく」ということです。心を折らないこと。絶望してしまわないこと。でも、テロをやったり、殴り返したりしないこと。それが、「たたかい」の仕方です。

 皆さんは、高校を卒業された後、きっと、社会で、今では想像もつかないような屈辱的な思いをなさると思います。絶対に勝てないゲームに引きずり込まれ、オトナの汚さを見せつけられると思うのです。その時、このことを思い出して下さい。「決して屈服することなく、抵抗することなく」ということです。

 絶対に勝てないズルいゲームに巻き込まれたとき、人は二つの道を取りがちです。

 ひとつは、心を折ってしまうこと。諦めて、「どうせそんなものさ」と、一人で勝手に納得してしまうこと。そうやって、つまらないオトナになってしまう人も、結構いるのです。

 それが嫌だと云って、「世間なんてクソったれだ」と、いつまでも喚き散らす人もいます。それはもう一つの道です。でも、「バカにバカというのが、一番のバカ」と言いますでしょう。いつまでも大人げなく反抗を繰り広げる人――そう言う人を、私はある種尊敬しますが、しかしそれは限界がある。それは、周りの人に甚大な迷惑をかけることがしばしばある点に、大きな問題があります。その極端な例は、つまり、テロリズムなのです。

 だから、皆さんは覚えておいてください。「心を折らずに、でも、バカにバカと言わない」ということ。これを、「非暴力不服従」と言います。これは、ガンジーが大英帝国の植民地支配と戦うときに、そして、キング牧師が白人社会の黒人差別と戦う時に、それぞれ採用して成功した方法なのです。

 この方法は、時間を味方にする点に、長所があります。時間は、すべてを変える巨大な力です。それを味方にすること。それが、「決して屈服することなく、抵抗することなく」という「たたかい」の仕方なのです。どうぞ、この事を覚えておいて頂きたい。

 以上で今日の授業は終わります。

第7回はこちらからどうぞ。


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