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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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三学期 第一回

二学期最後は、こちら

第16回:コンスタンティヌスのキリスト教

 私たちは、キリスト教の歴史について学んでいます。今日から、三学期となるのです。

 最初、私たちは、十字架事件に遡って、「キリスト教の誕生」を確認しました。それから、キリスト教が広がっていった過程を押えた後、そのキリスト教によって生まれた西欧というシステムに、注目しました。現在、西欧のシステムは、強大な文明となって世界に君臨しています。この西欧システムがどうやって生まれたのか、それを、キリスト教との関係で説明してみたのです。そのために、「教会」というものを、その基盤から、考えました。「教会」によって作られたのが西欧中世という社会であったこと。そしてその社会に「自由」をインストールすると、現代の西欧システムが生まれた。それが、私たちの学んだことでした。

 それでは、この「自由」とは何か。それはどうやって支えられるのか。三学期は、それを御一緒に確認します。キリスト教の歴史から「自由」を考えますと、そこには意外なものが見えてきます。それは、「キリスト教の神」です。

 「三位一体論」という理論があります。これは、キリスト教の神を説明する理屈です。神様を説明する理屈ですから、それは様々なものを説明することができる、きわめて便利な“道具”になります。この「三位一体論」の誕生と、「自由」の成立とが、実は、密接に結びついている。そのことを、三学期は御一緒に確認することとします。それは、今を生きる私たちが「自由」を考える際に、その根源に遡ってみる手掛かりになるはずです。


1:ディオクレティアヌスとコンスタンティヌス

 そもそも、西欧という地域は、ローマ帝国が支配していたのでした。そこが、長い時間をかけて、現在の西欧文明を作り出す。その過程に、キリスト教が大きな影響を与えた。

 前回・前々回で私たちが確認したことは、キリスト教がローマ帝国に組み込まれて行く流れでした。それは、200年代=3世紀の混乱を経て、300年代=4世紀の初頭に起こった、大きなドラマでした。そのドラマを経て、いよいよ、キリスト教はローマ帝国に食い込んでいきます。そして、その後の西欧地域はキリスト教なしには語れないものとなっていくのです。

 今日は、キリスト教がローマ帝国に食い込む、その最初の様子を確認します。それは、キリスト教がギリシャ化することであり、権力の影響を受けることであり、変質することでもあります。そして、その変質を経て始めて、キリスト教は、私たちの知っている宗教として確立することになる。その意味で、今日確認する事柄は、もうひとつの「キリスト教の誕生」と言えるのかもしれません。

 そもそも、キリスト教は、ローマ帝国内では「邪教・禁教」の類の新興宗教でした。そして、テトラルキア体制の中で、キリスト教は公式に迫害の対象となりました。世界一のローマ帝国がキリスト教を潰しにかかった。それは、「ディオクレティアヌスの大迫害」として記録されるところになります。303年のことです。

 この状況が、313年を境に、逆転します。帝国の敵であったはずのキリスト教が、帝国の支柱として重んじられるようになる。それは、コンスタンティヌスがもたらした新しい政策でした。

 コンスタンティヌスとディオクレティアヌスを並べると、非常に明快なコントラストが見て取れます。

 ディオクティアヌスは、テトラルキアの体制を作り上げることで、ローマ帝国の混乱を治めました。皇帝は、4人いる。その4人が秩序をもって互いに認め合うことで、秩序が保たれる。これが、テトラルキアという体制です。

 コンスタンティヌスは、このテトラルキア体制の崩壊を見て、自分ひとりが皇帝になることに成功しました。たった一人の皇帝です。それで、コンスタンティヌスのことを、他の皇帝とは区別して、歴史家は「大帝」と呼びます。

 「テトラルキアのディオクレティアヌス」と、「コンスタンティヌス大帝」。前者がキリスト教を迫害し、後者がキリスト教を利用した――こう書いてみますと、ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスが対照的であることが見て取れます。そして、この対照性を考える時、コンスタンティヌスがキリスト教をなぜ利用したのか、分かる気がしてきます。


2:ユダヤ教とキリスト教

 なぜ、キリスト教は、ローマ帝国で迫害されたのか。それは、ローマ世界の宗教が“多神教”だったからです。「いくつもの神々」がいて、それがバランスを取って生きている世界に、人々は生きていた。それが、自然なことでした。それに対して、不自然な宗教があった。それは、“一神教”の宗教でした。それは、「一つの神」だけがいると主張する宗教です。それは、ユダヤ教と、キリスト教でした。

 テトラルキアは“多神教”と適合します。「複数の巨大権力」が、互いに認め合いバランスを取りながら世界を保っていく。それは、「複数の神々」が互いに認め合いながら、時に抗争しながら、世界を支配しているという考え方に、ぴったり当てはまります。つまり、それは自然なことに思われました。しかし、その世界は混乱しがちになる。それが、弱点でした。

 コンスタンティヌスは、この自然な考え方を打ち破ります。これまでのローマではいけない。これからは、「たった一人」の支配者によって安定的に保たれる「新しいローマ」を作るのだ。それが、コンスタンティヌスの考えでした。そして、その考えにピタリと適合する宗教があった。“一神教”のユダヤ教とキリスト教でした。この二つの宗教のうち、コンスタンティヌスはキリスト教を採用したのです。

 ユダヤ教が採用されなかったのには、理由があります。

 ネロが皇帝の頃、帝国が混乱し始めたその時、“一神教”のユダヤ教徒たちは、大規模な反乱を起こし、ローマ帝国を震撼させたのでした。ユダヤ教徒たちは、ローマ帝国の混乱に付け込んで、自分たちの独立を達成しようと、武装蜂起したのです。そして、それは最初、大成功します。天下無敵のはずのローマ帝国正規軍が、辺境の一民族であるユダヤ人に完敗する。これは、帝国を揺るがす大事件となります。それで、帝国は本気になります。まずは巨大な軍隊を送り、反乱軍を徹底的に殲滅します。しかしそれだけでは済みませんでした。ローマ帝国は、ユダヤ教を徹底的に叩き潰そうと決めたのです。ユダヤ教の指導者を皆殺しにし、ユダヤ人の心のよりどころである神殿を破壊し、ユダヤの地にユダヤ人を住むことを禁じて世界中に追い散らす――こうして、ユダヤ教を再起不能なまでに叩き潰したのでした。その作戦を指揮したのが、ティトゥスという将軍です。この将軍は、ネロ死後の混乱を治めたフラウィス朝初代皇帝の息子でした。この戦争の功績が認められて、ティトゥスはフラウィス朝の第二代皇帝に就任することになっていく。こうして、フラウィス朝は確固とした王朝としてローマを治めることになっていったのです。この辺りを見ますと、帝国の目にユダヤ人の反乱が巨大な事件と見えたことが、よくわかると思います。

 しかし、驚いたことに、帝国が総力を上げて再起不能にとした筈のユダヤ教徒たちは、60年後、再び結集して、またローマ帝国に独立戦争を仕掛けてくることになるのです。世界中に散らされ、心のよりどころも失ったはずなのに、この団結力。これこそ、“一神教”の強みです。“一神教”では「神様は世界に一人しかいない」と考えます。ですから、たとえ世界中に散らされても、この人たちは自分たちの信仰を失わない。だから、この人たちの団結も、弱くならない――多神教であるローマ人は、この“一神教”のチカラに、恐怖したことでしょう。逆に、この信仰心を政治に利用できれば、混乱しがちな巨大な帝国を安定して治める事も、出来るかもしれない。そう考えて統一に成功したのが、コンスタンティヌス大帝だったわけです。

 ただ、“一神教”といっても、ユダヤ教を利用するのは、いささか物騒に過ぎます。ローマ帝国に武装蜂起するのが、ユダヤ教であった――そう考えると、キリスト教は、俄然、魅力的に見えてきます。みんなから気持ち悪がられ、散発的にリンチを受け、そして数年にわたって帝国の公式な迫害を受けたのに、キリスト教徒たちの大規模な武装蜂起は起こらなかった。これは、大変おとなしい“一神教”である。「新しいローマ」を建設するにあたって、こんな便利な宗教はない。

 唯一の皇帝=「大帝」として統治する「新しいローマ」建設のために、キリスト教が活用されたこと。それは、“一神教”でありながら平和主義を頑固に守るキリスト教という特徴を考えると、分かる気がします。但し、帝国の政治権力によって活用・利用されたことによって、キリスト教は変質していきます。そして、これは非常に大切なことなのですが、私たちが知っている“宗教としてのキリスト教”は、この変質した後の姿なのです。


3:「新しいローマ」

 帝国を統一し、「大帝」となったコンスタンティヌスは、「新しいローマ(ノウァ・ローマ)」を目指して、大胆な政策を次々と打ち出します。ここでは、そのうちの二つに注目してお話を進めます。

 「新しいローマ」建設の最初の一歩は、「ミラノ勅令」に始まるキリスト教の公認です。ただ公認する(迫害を止める)と宣言するだけではありません。キリスト教に、様々な特権を与えます。まず、迫害で傷ついた教会の指導者(エピスコペー)の名誉回復をする。それから、帝国の資金を使って、壊された教会堂を、立派なものに建て直す。キリスト教徒を特別待遇して出世させる。そして、キリスト教の礼拝の日を休みにしてあげる――後に触れますが、「日曜日=休日」という制度は、コンスタンティヌス大帝が定めたものだったのです。

 そして、更に、「新しいローマ」建設に向けて、コンスタンティヌス大帝は仕事を進めます。ローマの首都を、正式に、ギリシャに移すことにするのです。330年、ギリシャの東端、トルコ半島と海峡を挟んで向き合う古い都市ヴィザンツィオンに、新しい首都が建設される。その新しい首都は「コンスタンティノープル(コンスタンティヌスの町)」と名付けられました。

 最近は名目だけになったとはいえ、とにかく、今までの1000年間、ローマ市が「ローマ帝国の首都」でした。しかしこれからは名実ともにローマ市から「首都」が奪われる。東のギリシャへと、帝国の中心は完全に移動してしまう。これからローマは、帝国の西部の中核都市のひとつ、に過ぎなくなってしまう。このことは、とても皮肉なことに思われます。もともと、紀元前150年ごろ、大戦争を経て、ギリシャを軍事的に占領したのが、ローマでした。軍事的には、ギリシャがローマに飲み込まれたのです。しかし、それから400年経た頃、ローマの首都がギリシャに移って行く。ギリシャがローマに軍事力で負けたのは事実です。しかし、政治や文化において、最終的に、ギリシャはローマに勝ったのかもしれません。

 この二つの出来事は、キリスト教に大きな影響を与えました。そしてその影響は、後の西欧に深く刻印されることになり、現在の西欧文明に名残を残すのです。

 まず第一に、キリスト教が政治権力によって支えられるという形が生まれました。そのことをよく示すのは、「日曜日」という制度です。

 皆さんは、なぜ「週の初めの休日」を「日曜日」と呼ぶか、ご存知でしょうか。「日曜日」というのは、ローマの言葉(ラテン語)の「dies solis=太陽の日」の翻訳語です。「太陽の日」というのは、コンスタンティヌス大帝が定めたものです。実は、コンスタンティヌス大帝は、死ぬまで、キリスト教徒ではありませんでした。大帝は熱心な「太陽神」信仰の持ち主でした。大帝の宗教が、つまり、太陽を拝むものだったのです。キリスト教徒は、「週の初めの日」にイエスがよみがえったと信じて、宗教のお祭り=礼拝をしていました。それで、大帝は、「週の初めの日」を自分の宗教の日(太陽の日)として、その日を特別なものとし、この日以外に宗教のお祭りをしてはならないと定めたのです。それは、“一神教”のうちキリスト教だけに特別な特権を与えることを、意味しました。なぜなら、もうひとつの“一神教”であるユダヤ教は、「週の最後の日」をお祭りにして、1000年近い伝統を守ってきた宗教だったからです。「週の最初の日=太陽の日」だけが宗教の日として認められることは、キリスト教の礼拝を保護奨励すると同時に、ユダヤ教の伝統的なお祭りを禁止することを、意味しました。

 もともと、ユダヤ教はキリスト教を「異端」として迫害したのでした。しかし、コンスタンティヌス大帝の時代以降、これが逆転する。「いじめられたくなければ、誰かをいじめること」。迫害されてきたキリスト教は、同じ“一神教”を迫害する帝国の側に取り込まれることによって、遂に、迫害されなくなった。但し、これからは、キリスト教が「迫害する側」に回ることになった――このことは、現代の世界に暗い影を残しています。また、私たちの身近な問題を思い起こさせる、人間の変わらざる暗黒面を教えてくれるものです。

 「キリスト教は、大帝が保護をしてやる、ただし、キリスト教は大帝の手の届く範囲にいろ」――それが、「日曜日」という制度の、隠された意味です。そして、今でも、キリスト教徒は「日曜日」に礼拝をしている。ここには、キリスト教の弱点が、ひそかに隠されています。それは、権力に支配されやすい、という弱点です。これが、「新しいローマ」建設に伴い、キリスト教が受けた深い影響の一つです。それは、キリスト教が「コンスタンティヌスのキリスト教」に変わった、ということを意味しています。

 既に皆さんとご一緒に学んだ「ニケア公会議」は、「コンスタンティヌスのキリスト教」の到達点として理解できます。この会議は、コンスタンティヌスが開催を指導したものでした。そこで、「三位一体」という“唯一神”が、実に洗練された形で、確定するのです。ニケア公会議とは、イエス(子なる神)とヤハウェ(父なる神)が全く一つなのだ、ということを確認する「ニケア信条」を作りだした会議でした。つまり、ニケア公会議とは、「唯一の皇帝」としてローマ帝国を治めたコンスタンティヌス大帝の「新しいローマ」にふさわしいキリスト教が整備された会議でもあった、ということです。

 このように、「新しいローマ」建設の運動が、キリスト教を「コンスタンティヌス大帝のキリスト教」としてしまいました。このことは、事実です。ただ、同時に、大帝が行ったもう一つの大胆な政策――ギリシャへの遷都――は、全く反対の方向へ進ませるきっかけを、キリスト教に与えました。そしてそれは、教会の東西分裂という帰結に至るものとなります。

 ローマ市は、テトラルキア以来、歴史の中心から「おいてけぼり」を食わされてきました。そして遂に、「新しいローマ」の建設において、新しい首都・コンスタンティノープルが建設されるに至り、名実ともにローマ市は首都でなくなる。それでも、ローマには1000年の蓄積があります。幕末の頃の日本には、江戸と京都と二つの中心があったことが思い出されます。同様に、ローマ帝国にも、コンスタンティヌス大帝以来、二つの中心が生まれることになるのです。

 ローマ市にも、イタリア半島にも、皇帝がいなくなっている。政治権力の頂点に立つ人は、遠くに行ってしまいました。それで、ローマ市は蓄積した遺産を活用しながら、政治権力から少しの距離を取りつつ、「新しいローマ」の建設運動の中で、独自に発展して行く。その独自の歩みを進めた中心は、ローマ市の教会でした。これとは対照的に、東のギリシャ地方では、政治権力がどんどん強く教会に及んでくる。こうして、東西で、教会の空気が全く変ってしまいます。これが東西の教会分裂の下地となる。分裂した後、西の教会が、西欧中世という時代・世界を作り出して行くことになるのです。

 以上、「新しいローマ」設立の運動に合わせて、キリスト教が新しく生まれ変わっていったことを、ご一緒に確認しました。この変化の流れの中で、二学期に御一緒に学んだ「教会」というものが、確立して行くのです。ただし、その過程は一本調子ではありませんでした。次に、私たちは、キリスト教がローマ帝国内で地位を本当に確定して行く、そのドラマを御一緒に確認して行きたいと思います。それは、「自由」ということを見定めるための、議論の土台となるお話になるのです。


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