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カテゴリ:信仰者の夢
めくるめく、日が過ぎゆきます。
月曜日、夜、無事にイベントを終了。 降雪の中、学生諸賢が5名も来てくださいました。 その中に、ダンテの勉強会(春に開催予定)を心待ちにしていると、 すごい、お励ましの言葉をくださった方もいて。 本当に、ありがとうございました。 月曜日と火曜日の昼間は、 日本基督教団東北教区主催の勉強会に、参加。 東北の第一級の牧師・教師を講師役に、 若い牧師たちが、10名前後集って学びました。 ヴェテランとルーキーの邂逅。 言葉の重みに、ときめきを覚えるほどの慶びを感じて。 本当に、ありがたいことでした。 ヴェテランの牧師・教師の言葉の重み。 それは、実に味わい深いものでした。 マルティン・ルターは、 当時としては異常なほどの長生きをして、この世を去ります。 その最期の言葉が、絶筆となったメモとして、残されている。 それは、こう語っています。 「五年間、牧夫や農夫であったのでなければ、 ヴェルギリウスの牧歌や農耕歌を理解できまい。 四十年間、支配の重要な地位についていたのでなければ、 キケロの書簡、たとえば政治哲学の著作は理解できまい。 百年間、預言者と共に教会を導いたのでなければ、 聖書を十分に味わったとは思えまい。 なぜなら、 洗礼のヨハネやキリストの使徒たちの奇跡は 驚くほど強力なものだからである。 あなたは、 神の子の死を把握しようとしないで、 膝をかがめて彼らの足跡を拝するがよい。 私たちは乞食である。 これはまことだ。」 徳善義和先生の翻訳です。 聖書は、研究室や教室でも読めるけれど、 その味わいは、教会の中でこそ、確かめられること。 その内容は、分析によって把握することもできるけれど、 その滋味は、先達の足元にひざまづいて初めて確かめられること。 しかも、ここでいう「教会」というのは、 栄光に輝く神々しい場所としての教会でなく、 敗れと破綻と悲しみと痛みに満ちた、 実に人間の「ダメ」が噴出する、そういう場所。 その、人間のあるがままを受け入れる場所を導く、 その七転八倒の継続の中においてこそ、 聖書の味わいは、確かめられる。 なるほど、ヴェテランの牧師・教師の言葉の味わいは、 聖書の滋味の、余韻の香りなのでしょう。 ルターは、生涯の最後まで、現役でした。 そのルターでも、せいぜい30年程度しか、教会を導かなかった。 聖書の本当の味わいは、おそらく、最期まで憧れの対象でしかない。 でも、そのあこがれ故に、人は繰り返し、聖書に向き合ってゆく。 そして、汲みつくせない「何か」に、 時に心癒され、あるいは叱咤激励を受けて、日々を輝かしく生きていく。 生涯現役であれば、 もうこれだけやったんだと、 そういう自負があってもいい。 でも、そういう自負は、ある種の腐臭を伴う。 ルターの、この最後の言葉の、新鮮なこと。 土曜日は、今道友信先生の講義を受けに、東京へ行きます。 80歳をはるかに過ぎて、今も新しい講義を行い、 そして、新しい執筆に執念を燃やす。 その今道先生の口癖は、「憧憬」ということでした。 憧れは、きっと、常に人を新鮮にする。 新人の若者も、また、ヴェテランと共に、憧れましょう。 そうして、世代を超えて、輝きを繋ぎあいましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 20, 2009 05:48:53 AM
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