Justification of God 序の翻訳
ツイッターで、私は次のように書きました。落ち着いた休日。きっと、「なぜこんな事に?」という問いがふつふつと湧き上がってくる頃だろう。神学は、こういう時に役立つ。関東大震災時に高倉は英国でフォーサイスのJustificationを偶然読んで、フォーサイスに魅了された。今、それを翻訳しようと決意している。フォーサイスの論点は明確。神に「なぜこんな事を?!」と問うのが誤りである事。そうではなくて、「神はこの事態をどう良いものにするのか」と問わねばならない。原因を追求しても、怒りが増すだけ。目的を見いだして行けば、そこに展望が拓ける。その方がいい、という実利的神学。明日の朝から、フォーサイスのJustification of Godを翻訳して、ブログで公開します。起きれなかったらごめんなさい。そのつもりで、今日はブログを書かないで、早めに寝ることにします。そして、無事、今朝、起きることができました。ということで、以下に翻訳を公開します。できれば、毎日書きたいと思います。訳します本は、1916年の著作。「初めての世界大戦」という未曽有の事態に、茫然自失する英国。「どうしてこんなことに?!」という問に、神学で応える書物です。原書は、こちらで、読めます。ただ、この版には、出版当時ついていた「序」がありません。ここが、とても大切なのに。その「序」が、今日の成果です。ミルトンの「失楽園」からとられた、この不思議なタイトル。そこに込められた意味が、説明されています。 神の義認 戦時下のためのキリスト教的神義論講義 Justification of God Lectures for War-Time on a Christian Theodicy By P. T. Forsyth, M.A., D.D.. Principal of Hackney College, Hampstead 訳:川上直哉 序表題に「神義論」というような聞き慣れない言葉を掲げた。ここには注意が必要だ。タイトルであれ、サブタイトルであれ、新奇な言葉を掲げるときは、しばしば、より人が反発しない、むしろ興味を惹かれるような、そんな思惑が込められることがある。その思惑は危険なものだと、私は常々自戒してきた。現下、我々は大きな苦難の中にある。その苦しみの結果、「神義論」というこの珍奇な言葉は、多くの人々の宗教的な思いを支配する基調になっている。このことは疑い得ない。信仰と芸術と、等しく両方の分野で、我々は皆、多かれ少なかれ、高貴な仕事に携わっている。その仕事の目的は、一点に固定されている。その目的とは、ミルトンの『失楽園』にこう歌われていたものだ。 To vindicate Eternal Providence, 神の摂理のあることを証明し、 And justify the ways of God to man. 人に対する神の行いを正しいものとする (ll. 25-26).これこそ、「神義論(Theodicy)」というものだ。つまりそれは、「神のなさったこと」と「良心の声」とを擦り合わせようとする試みである。ここでいう「良心の声」とは、もちろん「我々の良心の声」でもある。しかしそれ以上に、「神の良心の声」をこそ、何よりも考えてみなければならない。まさに上記のようなことを、私は、本書の執筆において考えている。本書の目的は、神を人間の理性の法廷に呼び出して、その被告席に座らせることではない。人間の良心の法廷に引き出すことでもない。そうではない。むしろ、理性と良心のすべてを呼び出すことを目指している。神ご自身の説明は、イエス・キリストと十字架の内に表明されている。その説明を聞きに、我々の理性と良心を呼び出さねばならない。それが、本書の最終的な目標となる。一方に、哲学的な神義論というものがある。哲学的に神の正しさを立証しようとする議論は、あるのだ。しかし、それは今のところ成功していない。もし信仰がその成功を待っていたとしたら、魂は、その成功を見る前に壊死してしまうことだろう。他方で、宗教的な神義論というものがある。それは神学的な神義論とも言い換えられる(ここでは両者を同じ意味にしておきたい)。この議論には、成功の可能性がある。「可能性がある」というだけではない。そこにだけ、我々の避難所があるのだ。今日、公的な要請に応え得る可能性を蔵している神学とはなにか。それは、宗教的・神学的な神義論である。それは、神ご自身によって神の正しさを証明する議論である。それは、歴史を辿ることによって議論される神義論ではない。歴史とは、「神のしたこと」と「我々のしたこと」とが曖昧にないまぜになったものである。歴史の舞台においては、十字架の光は充分に行き届かない。それで、人生は確たる姿を示すことができず、結果、歴史そのものの全体像を見通すことはできないことになるのだ。神の弁護は、神だけができる。そして、神ご自身の神義論は、神の御子イエス・キリストにおいて示されている。神の問題とは、歴史の問題である。神の問題とは、歴史の中にいます神の問題である。ある疑いが、今日の人々を動揺させている。その疑いとは、科学的なものではなく、社会的なものだ。それは、理性が不調をきたした結果生まれた疑いではなく、正しさが歪んだ結果の疑いである。そこで生まれる「問」とは、まさに、大いなる「答」に通じるステップとなっている。大いなる「問」というものは、ある程度において、道徳的な問となっている。そこで問われるものは、「任務」であって「存在」ではない。「何をしなければならないか」であって「世界の法則」ではない。「魂」であって「実体」ではない。「良心」であって「神か人間か、どちらかの行いのプロセス」ではない。だから、結論として、次のように言えるだろう。「神の人間に対する義認」という議論は、「神によって義とされた人間の良心」だけを問題とするのではない、ということ。神の正義を、我々は、賜物として有しているのであって、結果として有しているのではない、ということ。神は、人間を疑いの中から救い出すことを以て、ご自身の正しさを弁護するということ。決して、人間に真実をデモンストレーションして見せることによってご自身の正しさを示すことはなさらない、ということ。ここで私は同僚のH.H.シュラウド牧師に謝辞を表しなければならない。師が、この書の校正作業に携わってくださったのである。1916年8月 P.T.フォーサイス