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納得の家づくり

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2024.07.02
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テーマ:建築(56)
カテゴリ:アート


ウィーン分離派(Wiener Secession、Wiener Sezession)は、1897年4月3日にウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新進芸術家のグループであり、正式名称はオーストリア造形芸術家協会(Vereinigung bildender Künstler Österreichs)と呼ばれています。この団体は、フィン・デ・シークル時代(fin-de-siècle)のウィーンにおいて、アール・ヌーヴォー様式や分離派美術の一翼を担いました。過去の美術様式から分離し、機能性と合理性を重視しようとするものです。

ミュンヘン分離派の設立(1892年)から大きな影響を受けましたが、独自の特徴として、総合芸術を重視していました。

Secession"と"Sezession"は表記の違いによるもので、実質的な意味に大きな違いはありません。両方とも同様の概念を指します。例えば、ウィーン分離派は"Wiener Secession"や"Wiener Sezession"として知られていますが、どちらの表記も同じ団体を指します。

メンバーは画家、彫刻家、建築家など多岐にわたり、ウィーン・キュンストラーハウスに拠点を置き、より前衛的で実験的な表現を追求しました。

19世紀末以前のウィーンでは、キュンストラーハウスと呼ばれる旧体制の芸術団体が存在しました。この団体はフランスのサロンや英国のロイヤル・アカデミーに相当し、形式ばった方法で展覧会を主催し、作品の選定は情実に左右されたものでした。展示会場は伝統的な装飾が施され、絵画作品は華美に陳列されました。

一方、1897年に設立されたウィーン分離派は、旧体制に異を唱える新しい芸術の運動でした。彼らは「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」というスローガンを掲げ、革新的な展示方法を取り入れました。作品の芸術的価値を重視し、展示空間もデザインされた独自の外観を持っていました。この手法は現代の美術館の展示スタイルの基盤となりました。


ウィーン分離派はウィーン・キュンストラーハウスとの脱退を経て、新しい芸術スタイルを生み出すことを目指しました。建築家も活動に参加し、ウィーン分離派にはウジェーヌ・グラッセ、オットー・ワーグナー、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒなど重要な建築家もいました。

この運動は他の芸術運動とは異なり、統一されたスタイルを持たず、アカデミズムからの逸脱や新しい芸術の可能性を追求していました。展覧会やセセッション館における壁画(ベートーヴェン・フリーズ)などが有名であり、分離派メンバーは多岐にわたるスタイルを持っていました。
ウィーン分離派は1898年から1905年にかけて23回の展覧会を開催し、総合芸術を追求していました。

このグループは工芸品の展示や会場デザインをホフマンが手掛けました。1903年に始まったホフマンのウィーン工房活動後、純粋芸術を志向するメンバーたちから不満が生じ、1905年に商業主義を巡る論争が勃発しました。この論争を機に、クリムトら24人が脱退し、後にオーストリア芸術家連盟を立ち上げました。

フィン・デ・シークル
(フランス語"fin-de-siècle"世紀末の意味)は、19世紀末から20世紀初頭にかけての時期を指す言葉で、特に文学や芸術において、変革や不安定性が漂い、未来への不確かな感情や前衛的な表現が現れた時代を示します。この時期は、新たな芸術運動や思想の興隆、社会的変化などが起き、独特の文化的・芸術的なイノベーションが生まれました。

これに由来して、ウィーンのアール・ヌーヴォー様式をセセッション様式またはウィーン・ユーゲントシュティール(青春様式)と呼ぶことがあります。

グスタフ・クリムト(Gustav Klimt、1862年7月14日 - 1918年2月6日)は、オーストリア帝国の画家でした。
35歳の時にウィーン分離派を設立し初代会長に就任しました。ウィーン・モダニズムの主要人物として、その時代の環境や出来事に深く関わる作品を制作しました。

彼は妥協のない主観的な芸術を追求し、19世紀末のウィーンで活躍しました。最初は写実的でアカデミックなスタイルで活動し、後に金箔を多用する「黄金様式」を経て、装飾的で抽象的な色彩と人物を組み合わせた独自の画風を確立しました。


セセッション館

建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒにより設計されたセセッション館(Secessionsgebäude)は、1897年から1898年にかけて建設されたウィーン分離派の展示施設です。 コロマン・モーザーによるユーゲントシュティールのファサードや、建物上部にある金色の月桂樹の球体は、「金色のキャベツ」として親しまれています。

現在、セセッション館はコンテンポラリーアートを専門とする世界でも最も古いギャラリーの一つです。 展示内容は、今でもウィーンセセッション・ビジュアルアーティスト組合(Association of Visual Artists Vienna Secession)のアーティストたちによって厳選されています。

総合芸術 ウィーン分離派における総合芸術は、音楽、絵画、建築、工芸などの異なる芸術形式を統合し、統一的な芸術体験を生み出すアプローチを指します。

この芸術運動では、展覧会の会場デザインや工芸品の展示などを通じて、独自の総合芸術的視点を追求しました。 また、ホフマンやクリムトらが活動したウィーン工房や、総合芸術志向を持つメンバーが展覧会を通じて新しい造形表現を模索したことが、ウィーン分離派における総合芸術の重要な側面となっています。

キュンストラーハウス(Kunstlerhaus)は、ドイツ語で「芸術家の家」を意味し、芸術家たちが集い、展示や活動を行うための建物や組織を指すことがあります。これは、芸術家が作品を公開したり、展示会を開催したりするための文化施設です。

ベートーヴェン・フリーズ
グスタフ・クリムトによる壁画で、作曲家ベートーヴェンとその音楽をテーマにしています。1901年のウィーン分離派展示会のために描かれ、ベートーヴェンの交響曲第九番を視覚的に表現しています。作品は3つの部分に分かれており、幸福への憧れ、敵対する勢力、そして愛と幸福が主題となっています。

左の壁では幸福と愛への憧れが象徴され、中央の壁では敵対的な勢力や人間性の苦悩が描かれています。右の壁には愛と幸福を具現化する女性像が描かれ、芸術と喜びの領域が描かれています。クリムトは装飾的な構成と寓意的なイメージを用いて、ベートーヴェンの音楽を描写しています。


『ベートーヴェン・フリーズ』は、クリムトにとって意欲的な作品でしたが、一般的な評価ではグロテスクで退廃的とされ、展覧会は財政的に失敗に終わりました。クリムトは、芸術と生活の融合による文化の進歩を追求しましたが、技術の進歩によって引き起こされる人類の病状や社会的、経済的危機に対する自覚から、失敗は想定内だったようです。

展示会自体は財政的には失敗に終わり、長い間一般の目に触れることはありませんでしたが、1986年に修復されて公開され、その芸術性が高く評価されました。クリムトの『ベートーヴェン・フリーズ』は、彼の作品の中でも特に知名度が低かったが、再評価される素晴らしい作品となりました。

コンテンポラリーアート
現代美術(げんだいびじゅつ、英語: Contemporary art)コンテンポラリーアートは現代のアートと称されるように定義は広いですが、一般的に20世紀初頭の作品を指します。作品のコンセプトを重要視しており、社会的・政治的テーマに焦点を当てた作品が多いのが特徴です。

モダンアートとの違いは、モダンアートは20世紀初頭から半ばまでの美術を指し、伝統的な価値観に挑戦しました。一方、コンテンポラリーアートは1950年以降の現代美術であり、より多様なスタイルと現代社会に根ざしたテーマを取り扱っています。


現在
ウィーン分離派は、20世紀初頭に活動した芸術運動であり、現在は特定の団体や組織としての継続状況はありません。しかしながら、ウィーン分離派の芸術家たちの作品やアプローチは現代の芸術に影響を与え続けています。彼らの総合芸術へのアプローチや新しい表現形式への挑戦は、現代の芸術家や芸術愛好家によって称賛され、継承されています。


現代アート事典 モダンからコンテンポラリーまで…世界と日本の現代美 [ 美術手帖編集部 ]









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最終更新日  2024.07.02 00:00:09
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