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カテゴリ:マンガ
今日の作品には「思い入れ」がある。
『悪魔のいけにえ』や『ゾンビ』に対するようなものではなく、同時代として読み込んだ作品なのである。 いましろたかし(この人も大好き)と組んだ珍妙なSF『タコポン』で狩撫麻礼の名から、土屋ガロン、ひじかた憂峰など作品ごとに別のペンネームを使用している。 土屋ガロン名義で、『天牌』で知られる嶺岸信明と組んだのが、本作『オールドボーイ』である。 狩撫麻礼時代には、その名にもなったレゲエ(カリブ海に浮かぶジャマイカのボブ・マーレー)、『ボーダー』のブルーハーツが示すように、反抗の歌が主題になっていた。アウトローであり、焦燥感であり、何となく生きることへの違和感である。 そのストーリーより主張重視の作風は今も変わらない。 さて、マンガ版『オールド・ボーイ』は思い入れが強すぎるのでさておき、カンヌでグランプリを獲得し、『JSA』のパク・チャヌクが監督したのが、タランティーノも絶賛した映画版『オールド・ボーイ』である。 初版が出たっきり、品切れ状態になっていたマンガ版が、実に7年ぶりに版を重ねたことは、喜ばしいことであった。 しかし、映画版がここまで絶賛される理由がよく分からない。 物語作りの方法的批評はさておき、フロイト派が舌なめずりして食いついてきそうなこの神話的復讐譚が、物語としてよくデキたものと認めるのはやぶさかではない。 また、復讐の動機も納得いくものとなっている。 女優の裸体も、絡みも目を見張らされた。 それを承知の上で、物語として、かつておしゃべりで軽薄であった、現在飲んだくれで冴えないオヤジが金持ちの坊やにイジメにられる話としか思えないのだ。 過激な暴力シーンも、ゲームのような格闘シーンも、架空の復讐譚を中心にグルグル回っている。 ある意味では、普遍的な復讐譚なのかもしれない。しかし、復讐のために権力を得たようにしか見えないのがイタイ。刃物一つでやろうと思えば復讐など済むにもかかわらず、ここまで待たざるを得ないほどのアイデンティティクラシスであったとも思えない。 その意味では、復讐譚としては普遍的でないのかもしれない。「トラウマ」(これもフロイト的だが)程度で忘却されていき、日常に帰還できる範囲だとも言える。 追記 狩撫麻礼名義で、松本大洋と組んだ『リボルバー』も映画化(Vシネ?)されているが、こちらも元が短編だけに無理やり引き伸ばした感があり、あまり感心できんが、こちらは『青春の終焉』などと供に論じねばならんだろうから、またの機会にでも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年02月04日 00時02分08秒
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