カテゴリ:感想
そういえば、先日、記事を書いた『ブルアカ』のイベントに関して、解釈違いという意見がチラホラ流れている模様。
正直、私は『ブルアカ』という作品に関して、そこまで真剣に取り組んでない(だから、キャライベも放置気味)ので、これに関しては完全に他人事である。そう言われたら「あぁ、そうなんだ」と思う程度で。 私の場合、どっちかといえば、『FGO』や『NIKKE』の方が真剣に楽しもうとしてた分、「うーん、これは解釈違い!」ってなってるし。そして、その度に、「いや、これはイベント時空だから…」とか「ライターさんが違うから…」とか一人で無意味な言い訳をして自己欺瞞を重ねていた。そして、その内、そういう言い訳もしなくなった。なんか虚しくなって。 個人的な意見を言うと、解釈違いは、常に起こりうる避けられない問題だと思う。何故なら、書き手と読み手は別人なのだから。 読み手には、読み手毎の好みがあり、理解があり、期待がある。当然、それとズレた表現や演出を書き手にされれば違和感を感じるし、不満も覚える。 「物語とは書き手と読み手の割符のようなもの」 そう言ったのは、どこの誰だっただろうか。もう覚えてないけれど、割と真理だな、と思う。 書き手がキャラを作り、物語を描く。そのキャラと物語が心に触れれば、読者は共感を覚える。 逆に言えば、心に触れない限り、読者には見向きもされない。笑いは起きず、涙は流れず、緊張や興奮を覚えることもない。そして、作者の独り善がりだ、オ×ニーだなんだと馬鹿にされる。 そういう意味だと、読み手と書き手は同等の関係、と言えるのかもしれない。 ただ、一つだけ確かなことは、作品の主導権・決定権は常に書き手にある、ということ。 当然ながら、書き手には、書き手側の思惑があり、嗜好があり、都合がある。その結果、描かれた物語が常に全ての読み手の期待に沿うとは限らない。というか、そんなことは有り得ない。 例えば、私は『ターミネーター』や『エイリアン』の続編として『ターミネーター2』も『エイリアン2』も完璧だと思ったけど、『ターミネーター3』も『エイリアン3』も解釈違いというか、色々、台無しだと思った。しかし、言うまでもなく、二作品とも公式による正式な続編である。それは事実だし、読み手にそれを否定する権利など無い。精々、解釈違いだ、と愚痴を零す程度で。 そもそも、物語に"正解"なんて無い。 例えば、『シンデレラ』だって、グリム童話とディズニーアニメで、まるで違うし、どっちが好きかは結局のところ、読む(観る)人に依る。しかし、一人の書き手が一度に描ける物語は一つだけだ。 ならば、そんな解釈違いに出会ってしまった時、読み手は、どうすればいいのだろう。 道は、三つだ。 一つは、解釈違いだと思ったら、すっぱり手を引くこと。実は、これが一番、健全。 解釈違いが起きるということは書き手と読み手にズレがある、ということで、読み続ける限り、今後も同じような擦れ違いが続く可能性は高い。当たり前だが、作品は書き手が描くもので、読み手の理想通りの作品が造られることなど万に一つもない。もし、他人の作品に対して要求が多い人は、自分で自分の為の作品を書いた方が良い。元来、創作とはそういうものだと思うし。 もう一つは、不満を漏らしながら「仕方ないな・・・」と渋々受け入れること。私の場合、『FGO』や『NIKKE』が、これ。好みとはズレがあることを受け入れた上で、「もしかしたら、また自分好みの展開が来るかも・・・」とDV夫が唐突に真人間になってくれるんじゃないかと期待するような淡い期待を勝手に持ち続け、裏切られる度に不満を漏らし続ける。正直、言って不健全、極まりない。誰が悪いのかと問われれば、自分の好みと違う作品に嫌々、しがみ付いている読み手の方が悪い。 最後は、"見なかったことにする"である。つまり、「こんな展開は無かった。イイネ? ア、ハイ!」と自分に言い聞かせ、すっぱり頭から無かったことにしてしまうことだ。例えるなら、最愛の恋人の浮気現場を目撃しても見なかったことにし、憧れの先輩の自慰行為を目撃しても見なかったことにするようなもの。要するに、自分にとって都合の悪い展開や演出には目を瞑り、都合の良い部分だけ残すようにすることだ。 周りから「いや、でも、これ……」と言われても、「あーあー見えない!何も見えなーい―」と言い張ってしまえばよいのです。現実逃避などと馬鹿にするなかれ。都合よく物事を捻じ曲げ、事実から目を背けるのは、人間の十八番ではないですか。 ……ま、一番ラクなのは、たかが創作物に、そこまで真剣にならないことだと思うんですがね。解釈違いだ許せんってなるのは、それだけ、その作品やキャラにマジになってるからだと思いますし……それができれば 苦労はしねェ!!! ※10月30日追記 物語に正解がないということは、所感にも正解がないということ なんか、小泉構文みたいになっちゃった(ゲフンゲフン 要するに、何かの作品を見た時に「A」と感じる人もいれば、「B」と感じる人もいるという、まぁ、それだけの話です。 先述の『ターミネーター』の例えですが、私の大学時代の先輩に言わせると、「『ターミネーター』で運命は決まってるというお話だったのに、『2』で未来は変えられることにしたのがダメ。でも、『3』で"運命は決まっている"に戻したからOK」という感じで、寧ろ、『2』の方が蛇足扱いでした。 要するに、先輩は「作品としてのテーマ性」で、私の方は「続編としてのコンセプトと出来」で、それぞれ評価している観点が違うので、こういう風に所感にも差が出てしまう訳です。 ちなみに、『エイリアン』に関しては先輩が「1~4まで全部、面白い」で、私は「1と2は面白いけど、3は・・・でも、4の〆方は好き」という感じ。 でも、これはどっちが正しい正しくない、ではないと思ってます。 というか、年がら年中、アニメやら映画やらの感想を仲間内で言い合ってるから、そもそも、自分の所感なんて、所詮、独り善がりでしかないことぐらい否応なく思い知らされてるし(^^; しかし、"私"という主体にとっては、やっぱり、"私"の所感が絶対な訳でして、それはそれで大事にしたいよなーとも。なんか、作品に対する所感なんて、観る人の数だけあればええやんとしか。 例えば、私は岡田先生のガンダム講座や他の感想動画も見るけど、それは岡田先生の視点や語り方に味があると思ってるからで、それが正解だとか思ってないからね。 なんて言うか、答えが欲しい訳じゃないんだよね、こういうのって。自分がどう思ったか、それは何故なのかを考えて、吐き出したいだけで。でも、そういう個人の見解が許されないみたいな風潮もあって……難しいね、バナージ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年10月30日 00時44分22秒
コメント(0) | コメントを書く
[感想] カテゴリの最新記事
|
|