テーマ:★☆沖縄☆★(2877)
カテゴリ:宮古諸島
旅なれた島だけど、
宮古人と毎日一緒の島だけど、 初めてのJANG JANGで、 懐かしさに、自然体で接し、 ”帰ってきたなぁ”と真実想った・・・ そう、風人の学生時代、 内地でもフォークブームで、 新宿の地下広場が劇場と帰し、 ベトナム反戦! オキナワを還せ! の反戦平和のフォークゲリラの”真っ只中”にいたなぁ~ その熱い波が消え去った頃、 私も社会人として新米サラリーマンの頃、 当時、遠くオキナワの地で「オキナワフォーク村」の、 南風が人から人へと伝わっていたなぁ~ いつか自分の原点の一つの世界を感じに、 オキナワへ・・・と想っていた、 遠い・・・遠い・・・あの時代・・・ 何十年振りだろうか?! 初めての遭遇なのに、 JANG JANGの七重さんも、のひなひろしさんも、 懐かしさが込上げてきて、 ”熱いもの”が胸から目頭へ・・・ 追い求めていた歌風景にたどり着いたような、 優しい自然体の空気が漂う、 JANG JANGに、また帰りたいなぁ・・・ JANG JANG宮古島本店 0980-73-8668 宮古島市平良下里575-105 山口七重 JANG JANG東京支店 03-3718-8873 東京都大田区北千束1-52-6-2F 山口えみ 「くまから かまから」から、 七重さんの「のひなひろし」について ===================================== 『「のひなひろし物語」ー飽くまでワタシ的見聞ー』 JANG JANG Nanaeさん 復帰直前、琉大生を中心とした「沖縄フォーク村」という音楽集団が結成さ れた。今から30年以上も んきゃーんのぱなす(昔の話)である。 琉球政府立琉球大学美術工芸科に見事一発現役合格した、のひなひろし少年 18歳。期待に胸膨らませつつ(たぶん)大都会(?)那覇へと一人旅立ったの でありました。 しかし、学友たちの言葉は全くわからん。だいず!!(大変)人気のない淋 しい守礼門の下に、高校時代に覚えたギターを爪弾く孤独な少年がひとり・・。 琉大に孤独な少年が多かったのか、単なる世の中の流れか?そして「沖縄フォ ーク村」結成。まもなく本土復帰。復帰前に3ドルだった下宿代が何故か3000 円に跳ね上がったとか。大家のおじいが1ドル=1000円と思い込んでいたらし い。混迷の時代じゃー! 内地では、岡林信康、五つの赤い風船などが活躍した第一次フォーク期が終 わろうとしていた頃、佐渡山豊、北炭生、真夜中しんや、のひなひろしが参加 する「沖縄フォーク村」もエリックレコードから全国デビューをする。我ら宮 古の、のひなひろしのデビューである。(ちなみにデビュー曲は「守礼門」) 復帰一年後には、日比谷野外音楽堂で「あれから一年沖縄フォーク大集会」が 満杯の観客の中開催された。ちなみにその楽屋で私は、のひなひろしと初めて 顔を会わせました。私、中学生。キャー、歳がバレるー! その頃はサマーキャンプなども盛んに行われたが、しばらくして「沖縄フォー ク村」も消えてしまう。 その後、沖縄では「イエローサブマリン」という事務所が設立され、のひな ひろし、仲井真淳、名城公子のオムニバスLP「うりずんの島」が発売される。 沖縄ではもちろん、宮古でも大ヒット。当時音楽好きの中・高生は全員が持っ ていたといっても過言ではないのでは。1978年3月に旧平良市民会館で行われ たジョイントコンサートの観客数!東京からきた私としては、本当にビックラ こきました。 のひなひろしはその後、キングレコードから「うりずんの島(B面:季節は ずれ)」で全国デビューをしたものの、結局は本来の希望の美術・デザイン方 面を本職に、音楽はライフワークという道を選び、二足の草鞋をはきながら、 那覇のライブハウス等で歌い続けること二十ン年。そして40歳を境に、♪僕も いつか帰る ふるさとは宮古♪「さしば飛んだか」♪私もいつかきっと帰るだ ろう ふるさとのあの島へ♪「芭蕉布の詩」としつくこく歌い続けた気持ちを 実現し、宮古島へと戻ったのでありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年10月28日 13時41分32秒
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