より大きな自分(前)
バーチューズ・プロジェクトが提案している美徳を通しての教育プログラムには5つの大きな柱があって、そのひとつに「スピリットを尊重する」というのがある。精神世界と言われるような限られた分野ならともかく、教育の場でそれを取り上げたことにぼくは大いに感動している。スピリットとは、流行のようにして楽しむスピリチュアルなディズニーランドの話でも、思わせぶりたっぷりな霊的な小部屋の話でもないのだ。人が暮らしているこの地上の日常でこそもっとも必要な、身近で頼もしい友だと思っている。 けれども、このスピリット。エミサリーの友でもある翻訳家の友人によると、これだと言って置き換えるべき日本語はないそうだ。ないということは、日本人はスピリットを持っていないということだろうか。まさか、同じ人間だ。ただ日本人は、あいまいなままわかったような顔をしてスピリットという言葉を使い、感じているのかも知れない。ぼくがその最たる者だ。いやもしかすると、spirit という言葉を持つ国々の人たちでさえ深くそれを感じているのかは疑わしいだろう。今の世界の状況を見ると、そうとしか思えない。 どんな辞典を開いても、スピリットを言い当てているものはなさそうだ。英和辞典のリーダーズなら、精神、霊、魂、心。果ては亡霊、悪魔、妖精などときた。広辞苑も似たようなものだ。訳を当てた人自身がスピリットを感じているのかどうか、まずは聞いてみたいものだ。 Stillness in Mikuni,Fukui 『52の美徳・教育プログラム』(リンダ・カヴェリン・ポポフ著、大内博訳、太陽出版)は、学校教育の現場に視点を置いているせいか、ぼくには理解が及ばない実にややこしい言葉を使っている。ウェブスターの『新世界辞典』の spirit の定義を引きながら、「本質的な資質。生気を与える原則。生命。意思。思考」と紹介し、さらにその上で、「教育という文脈の中で『スピリチュアル』という言葉を有効に考えるには」として、3つの項目を上げている。 意味と目的意識 信念と価値観 人格における美徳の達成 これだけを読んだのでは、バーチューズ・プロジェクトからはサッサと離れたくなるぼくだが、我慢して読むと、ついに素晴らしい言葉に出会った。それはゴシック体でもなく文中にさらりと書かれていた。 「美徳の言語を話し、毎日、教えに最適な瞬間を発見していくなかで、私たちは生徒に内在するスピリット(より大きな自分)を尊重しているのです」。 「より大きな自分」。これほどピッタリな spirit の訳に出会ったことがない。そういうことなら、こんなぼくでさえ毎日のように感じてみたいと思っている存在じゃないか。ぼくは邪悪な心もしっかりと持っているちっぽけな人間だが、決してその小さな範囲だけに留まっているつもりはない。心を開いて広げるとどんなに気持ちいいことかを知っているし、たとえ登っていなくても、白山の頂の神聖さを感じられるほどにイメージを広げることだってできる。ぼくなりの「より大きな自分」をすでに体験していたのだ。任されたワークショップの「スピリットを尊重する」ひとときにしてみたいことが、なんだかはっきりと見えてきた。 めぐり愛・言葉(こころ)がつなぐ幸せ結びあめつちのしづかなる日 in 四国