|
カテゴリ:カテゴリ未分類
今回の旅行はとにかく忙しかったっです。9月10日に成田に着いてその晩横浜の姉の家にとまって、11日に、広島にいる両親のところへ行きました。12日の朝9時に病院へいきました。父のかかりつけの腎臓の医者から“入院する用意をしてきてください”といわれたので、父の洗面道具や下着パジャマなどをいれたスーツケースと、母も一緒に泊まりたいというので母のスーツケースと2つ持って、両親、姉、と私の4人で行ったのです。30分くらい待たされて、若くて美しい横道春奈内科医と話しました。胃カメラでとった写真をみせてくださり、“赤くなっているところががん細胞です。“とおっしゃいました。”手術のやりかたは、胃カメラを飲んでいただいてそれについている注射をうつと、がん細胞が浮き上がるので、その地点カメラについたナイフで削ぎ取ります。作業に約2時間かかります。“といった後、携帯電話をとって、”医療機はいつ使えますか?“とたずねました。”10月7日にあいています“と言われたので、私たちに向いて、“じゃ、手術を7日にしましょう”とおっしゃいました。これで診断はおわりでした。 わたしたちは、気がぬけてしまいました。 あの、腎臓の医者が入院準備をして来なさいとおっしゃったのですが。。。“というと”ああ、あの先生ね“と軽く言っておられました。せっかく準備万端だったので、“お父さんたち、2人で温泉旅行へでも行ったら?”わたしは冗談半分で言いました。 ということで、10月4日から再び日本へ行きます。 今回教会でもいろんな方に父のために祈っていただいて、本当に感謝です。 もうひとつ大きな恵みがあたえられました。 これまで母との関係がぎこちないものでした。今回の旅行で母が初めて、理由を説明してくれ、シャワーを浴びるかように、赦しが与えられました。 母は、山口県のある農家に育ちました。母方祖父母の家は、山の奥で、馬、牛、にわとり、米畑、野菜畑、果物の木とある広い敷地の家でした。母は、適齢期に農家にお嫁にいきましたが、厳しい農作業は無理で体を壊して嫁先から戻されました。当時離婚暦があった女性はかなり偏見の目でみられたことでしょう。数年たって、父と知り合って再婚しました。そのとき、きつい祖母は、“あんな家なしのところへ行って”と愚痴をこぼしたそうです。父は四男で家がもらえず学歴もないひとです。小さな家を借りて二人の結婚生活ははじまりました。そのとき、祖母は、“こんなに小さな家でさえ、自分のものではなく、借家とはなさけない”と母に冷たく言ったそうです。実家に帰るたび、“どんなに貧乏していても、ちゃんとした格好をしてかえりなさい”そうしたら、わたしも安心できるから。“といったそうです。母は、一文無しの主人と結婚した私に、自分が言われたとおりのことを繰り返して言っていたのです。 長年、母の冷たい言葉に心を痛めたものですが、背景を知って赦すどころか母を憐れむことができるようになりました。 じつは母がわたしに冷たくしたように、知らないうちに私も娘に冷たく言っていました。それで長女がテイーンエイジャーになって躓いたときあの“境界線”という本にめぐり合ったのです。その後私と娘の関係はいやされ、今では近くありながら、健全な境界線がもてています。 主のなさることはすばらしいとつくづく思います。ハレルヤ _________________________________________________________________ イカ天やWe舞台のWebオーディション、夢をかなえるチャンス!詳しくはこちら http://clk.atdmt.com/GBL/go/msnjpie7xxx-xxx-xxxxxgbl/direct/01/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 16, 2008 11:18:30 PM
コメント(0) | コメントを書く |
|