経堂界隈

2011/11/14(月)10:51

平石君

6年3組(75)

6年3組出身で、僕らの代の緑中生徒会長だった平石君が上京、数名で会った。 平石君は中学時代バスケット部。 当時の緑中はバレー部、バスケット部が男女とも世田谷区で優勝、都大会ではバレーが男子優勝、女子準優勝、バスケットは女子が準優勝だったように記憶する。 この両部の活躍を支えたのが、バスケット部は、佐々木先生、バレー部は日食(ひじき)先生。大学でも先輩、後輩の関係。それぞれが、朝は7時からの朝練、放課後は夕方ボールが見えなくなるまでの猛練習。厳しい練習の中、部員の結束は固かった。 その佐々木先生がお亡くなりになったという噂が流れ、平石君が先生のご自宅に電話したところ、ご本人がお出になった。 「先生、生きてらっしゃったんですか?」と、正直にしゃべってしまった平石君。 「誰が僕のころを殺したんだ」とお冠の先生。 そんなことで、 たまたま平石君に上京の用事があり、金曜日、何人かに声をかけ、先生と久しぶりにお目にかかったそうだ。 75歳になられた先生は、お元気そのもの。 誰だ?亡くなったなどと言ったのは? 佐々木先生は、本来バレーが専門。緑中のあと高校へ移られ、そちらではバレーを教えられていた。後輩ながら、すばらしい実績の日食先生に、指導方法を教わったと先生が平石君にお話しなさったという。 バレー部だった三原君がその話しを聞いて、 「日食先生は大学卒業してすぐ緑中に配属された。大学バレー部の練習方法をそのまま持ち込んで中学生にやらせるんだから、強いわけだよ。でもね。当時でも結構大変だったらしい。先生方が非常に熱心だったのを、日教組の先生が咎めだてし、そんな一生懸命やるなというようなことを言ったらしい。あまりにも再三、理不尽な言いように、ついに先生が激こうし、某日教組の女性教師に手を挙げるに及んだらしい」 今なら進退問題になるところだろうが、擁護する人がおられたか、一応は無事に済んだのであろう。 確かに厳しい練習だった。 だが、先生はご自分のためでなく、僕ら生徒に全力を尽くすことの大切さを徹底して示された。だから緑中の連中は結束が固く、今でも多くの人が各方面で活躍する。 バレー部のM君は、家庭の都合でスパイクが買えず、つま先の破れたシューズを使っていた。 見かねた仲間たちが100円ずつ小遣いを出し合い、「これで靴を買え」と言ったのだが、「僕はこれで良い」と、敗れ靴で通した。 その彼は、若くして都立高校の校長となり、最近再び現場に復帰したと聞いた。 僕らは決して不良学校と言われるだけの連中じゃあない。 *** 土曜の夕方、平石君を囲んでミニクラス会。 午前中は外出していて、帰宅後の午後は、翌日予定の叔父貴13回忌段取り。 親父が、これだけは出かけると言ってきかず、前日から準備を始めるのだが、どうせもとの黙阿弥。しかし、やるだけはやっておくと、言うことを聞かぬ親父を言い含めるには家人たちでは足らず、どうしても僕が登場する。 平服でとあるから と背広を決めて用意する。どうせ翌朝は礼服と言いだすに決まっている。 香典を整える。 「そんな金額でいいんかい?」 「だいじょぶだ」 おかしいな今回は、珍しく奮発しない。一応こちらも2所帯分、香典を用意。 渋谷天厨菜館でのクラス会に出かけるというカミサンを送り出し、さらに親父を床屋へ送ったあと、こちらも経堂駅方面へ。 土曜日夕刻の経堂は意外に混雑していて、人数が多いのは断られる。 西通りの天洋へ。 平石君は、あくまで穏やか、朴訥に話す。 昔から、人の多いところは苦手。早世された父上と過ごした北海道が小学校の頃からのあこがれ。学校も就職も北海道。 60になったら小舟を買って釣りして過ごすと言っていたが、一足早く小舟は畑に化けた。 日曜まで東京におられ、月曜に福島在住の小学校担任の先生をお見舞いして帰る。 天洋から出て、コーヒーを駅前のマックで、と思ったら、翌日の準備を思い出し、急ぎ帰宅。 もう11時近かった。

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