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最近は、直に太陽に当たったらヒリヒリしますね。
皆さん、お早うございます。 今日はね、昔とんでもない大病をした時のお話をしたいと思います。 賞味期限の過ぎた物を食べても一度もお腹を壊した事がないほど、獣並みの生命力の私ですが、そんな私がガンになりました。 多分、ガンもどきだと思うのですが。 当時、うちの母のガンの手術が済み、通院治療をしていた頃からだったでしょうか、 あ…私もガンになってる……自分で触診してみて分かったのです。 でも、私まで入院したら母の世話をする人がいなくなる、 子供達はまだ学校で手一杯だし、おとーさんとはサヨナラ状態だったし、 まあ、私は母に全力で付き添っていよう、それで自分が手遅れでどうにかなっても母の手助けになったんならそれでいいや、と覚悟はできていました。 でも、毎日のようにお知らせが来るんです。 何者かが、曲げた指の関節のところで背中をグイグイと痛いぐらいに強く押してくるのです。 早く、早く、そう急かしているのがはっきり分かるのです。 何を急かされているのかも分かるのですが、母の世話をするのが先、と私の答えは決まっているので突っつかれてるのをずっと無視していました。 背中を突っつかれ始めてから数か月経った頃、母の通院が入院に切り変わりました。 つまり明日から付き添わなくてもよくなったのです。 そのタイミングで、何故か私の口が勝手に開いたのです。 「先生、実は私にもしこりが…」 とたんに先生が「なにっ!?」 いきなり先生の声と顔つきが変わり、「そこに寝て!」 寝台で触診をする先生に「ね?」と言うと、「うーん、限りなくソレに近いな」と言うなり、 「よっしゃ、すぐ帰って入院の用意をしといで。検査してすぐ手術や。予約は僕がやっとく」 いや、何、この手早さ。 いつも患者でいっぱいで、何をするにも予約に時間がかかるこの病院で。 しかも、手術確定になってるやん。 この瞬間から、背中を突っつかれる感触がふっと消えました。 翌日から母と私、階は違うけど親子仲良く入院になりました。 「お揃いやな」と言う私に、母もフッと笑って、ほっとした様子。 実は、母は数か月前に「あんたもなってるのと違う?」と言った事があったのです。 母は親の勘で分かったのだと思います。 恐るべし母の愛! さて、人生初の手術です。 手術室に入ると、3人ほどの医師と看護婦さん達がすごい緊張感を出していて、わぁ、すごいな、ドラマみたいと思ってました。 何故か私は、緊張感も恐怖感もなく、ものすごい安心感がありました。 「皆さん、今日はよろしくお願いします!」と言ったら、なんかちっちゃい声で返事みたいなのがポツポツと聞こえ、言うたらアカンかったかな、とか思っていると、 「なんや、緊張してるんか?」と先生の声。 「あ、先生。よろしくお願いします」と先生を見つけて嬉しそうに言うと、 「はい」 先生のピシッとした声。 あ、気合入ってるわ…。さすが。 初めて知ったんですが、手術の前に2回ほど、それぞれ違う医師から、今日何の手術をするかを問われ、名前や生年月日を問われます。 そして今の麻酔は酸素マスクの形でするんですね。 「私の後から繰り返して数えてください」看護婦さんが「1、2…」と言ううちに「2」でアウト。意識が消えました。 目が覚めたら夕飯時になってました。 病院中に漂う夕飯の匂いでそれが分かったのですが、この食い意地の張った私が食欲が湧かないのが不思議でした。 何がどうなってもあんまり怖くない私が、唯一怖いのが「痛み」です。 メスで刻まれたなら、麻酔が切れた時ものすごく痛いんだろうなと思ってましたが、麻酔が切れても痛みが全然ありません。 そのお陰で、めちゃめちゃ嬉しかったのです。 朝から晩まで、病院では飽きるほどの時間があるので、何故この病気になったのか、ゆっくり精査できました。 医学的な事は何一つ分かりませんが、一人の人間として、娘として、母親として、別居状態ではあっても妻として、どこが間違っていたのか、何故この病気なのか、たっぷり考える時間がありました。 身体は心の容れ物です。 心が間違っていれば、身体が表します。 色んな種類の病気があるけれど、私はこれだったのです。 何故ずっと背中を突っつかれていたのか、私には生まれてきて、まだやるべき事がたくさん残っているから引き留められたのです。 子供を育てあげる使命もまだ途中。 旦那との別居も、何も解決できていない。 母よりも先に逝っては親不孝。 自分の反省もまだ不十分。 私を常に見守る方のお陰か、気がついてから何か月も経っていたのに、どこにも転移していなかった意味。 ヒトの存在と霊の仕組みの関係はすごいです。 信じない人にはイマイチな考えだと思いますが、これまでの人生で、人は単一で生きているのではないのを何度も見て感じてきました。 この手術・入院で、私は自分の存在をじっくり考えることができたように思います。 入院中は痛みが何もないので、めちゃめちゃ元気でした。 二日ほどしたらすぐ大部屋に移動になりましたが、じっとしていられず母の病室に行き、洗濯をし、売店に行く時は同室の患者のお使いをしたり、夜中に目が冴えたので幽霊がいないか探しに、病院中を散歩したり。 比較的新しい病院だったせいか、それらしきものは見当たりませんでした。 まあ、日頃は見える人間じゃありませんけどw 病院の食事は本当に美味しくないです。 こんな塩のない物を食べていたら元気が湧きません。 子供たちが見舞いに来た時、お膳に食事がたくさん残っているのを見て、娘が喜んで食べていました。 彼女は薄味が好みなので、病院食が好きなのです。 この子達も両親がいない中で、三人でどうにかやっていたようです。 私の入院の事は誰にも言わなくてOKと言っていたので、何とか自分たちでご飯を作ったり作らなかったりして、生きてくれていました。 さて、抗がん剤を使用したら毛髪が抜けますが、私は半分ほどしか抜けませんでした。 先生が抗がん剤を半分に控えたとしか思えません。 主治医のこの先生には何故か親しみを覚え、先生も何歩か私に近づいて接してくれてる感があり、次期院長なので多忙な人なのですが、よくあれこれと話をする機会がありました。 それだけに尚更、癌治療についての行為が他の病院と同じなのが、後で思えば残念でならないのです。 何かの話の流れで、私が「先生、身体は心の容れ物ですやん」と言ったら、 「ないない」と先生は首を横に振りました。 まあね、でかい病院の院長になるような人なのでそれなりの道を歩み経歴も積み、多分アメリカあたりで西洋医学をばっちり学んでしまったかも知れません。 とても好きな先生だけど、考えは天と地ほども離れているんだなーと、悲しく思ったのです。 そんなこんなで無事に家に帰ってきたのですが、思えば良い機会でした。 自分について、おとーさんについて、親について、此の世について、小さな脳みそでいっぱい考えました。 同時に別居していたおとーさんもあれこれ考えたようです。 「これ、ワシのせいか?」と真剣に聴いてきました。 病気になった原因は、自分とのたくさんの喧嘩のせいかと聞いているのです。 おとーさんまで病気になったならそうかも知れませんが、私が受験者ですから。 私がちゃんと天のテストの解答用紙を埋める必要があるのです。 「いや、これは全部私の問題や」 そうは言っても、おとーさんは黙って何か思っていました。 その数か月後、再度届けを出して夫婦に戻ったんですけどね。 別居中、おとーさんも色んな事を考え、反省を繰り返していたみたい。 なんかすんません、色々と…。 あれから何年経った…? 10年ほどかな。 再発もなく、病院に行くこともなく、風邪すらひかず今日に至ってます。 でも、どこも悪くないからと言って、自分に反省するところが一つもないと思うほどめでたい人間じゃありません。 いまだに不器用ですけど、毎朝天に向かって、よろしくお願いします、と声に出すのは、ちゃんと生きるためです。 ちゃんと生きれてないですけどw 人間性の向上、人としての魂の成長のために人は生まれてきます。 今世でどこまで自分を伸ばせるか、それをして命をバトンタッチしていくのだと思います。 そして、どうせ生きるのなら、より楽しくより面白く。 楽しい繋がりをいっぱい作って、あー楽しかった!と思いながらあっちに逝きたい。 楽しいばかりじゃ目的を忘れるじゃろうと言って、天が難題をポンとくれる…。…いらんのに…。 人生ってそんな感じで進んでいくようです。 なので、もう人生終わろうかなと考えてるそこのキミ、あかんで。 一個も楽しい事がない人生なら、少なくとも一個は楽しい時を作らんと。 せっかく人間に生まれたんですから、頭をちゃんと使って、身体も使って、我を忘れるほどの事を必死で探してください。 もったいないから。 今日は、初めて大病をした時の話をしましたが、なんのオチもないですね。 病気をしてもこの性格はあんまり変わりませんでした。チャンチャン♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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