大江健三郎 「セブンティーン」再読
大江健三郎を初めて読んだのは1993年頃だと思う。確か「死者の奢り」だ。1994年に大江健三郎はノーベル文学賞を受賞する。「セブンティーン」は1995年頃に初めて読んだ。「セブンティーン」は二部構成で第一部が「セブンティーン」、第二部が「政治少年死す」という編成になっている。1995年当時、「政治少年死す」は文庫や本で読むことができなかった。それは「政治少年死す」が山口二矢を不当に貶める作品とみなされたからである。そのため右翼団体から強い抗議を受けて「政治少年死す」は封印されてしまった。「政治少年死す」は、主人公が17歳で代議士を襲撃して自死に至るまでを描いている。そのためその作品は山口二矢をモデルにしたものとその当時の人々にみなされてしまったのである。そのような「政治少年死す」という作品だが、「大江健三郎全小説集」の刊行とともについに「本の活字」として読めるようになった。それで今回改めて「セブンティーン」と「政治少年死す」を附せて読むことができた。1960年の「事件」をあらかじめ知らない世代の僕にとって、この一連の小説は山口二矢を貶めるために書いた作品ではなく、大江のある思考実験をそのまま文章にした作品ではないかと思った。それは、もし大江が今17歳で右翼思想を抱く少年になっていたとしたら、どのような形でそうなるだろうかという思考実験。だから「セブンティーン」二部作に登場する「少年」は大江自身をそのまま投影したような存在ではないだろうか。 * * *「セブンティーン」は主人公である「おれ」が17歳の誕生日を迎えることから始まる。「おれ」は自意識過剰で頭でっかちなくせに何もできない無力な少年として描かれる。しかもそれはデフォルメした形で滑稽に描かれる。「おれ」ははじめのうちは左翼的な考えをするべきなのだと思い込んでいた。しかしその思想的基盤はあやふやで、自衛隊病院の看護婦として働いている姉に論破されてしまう程度のものだ。それから読者は延々と自意識過剰な「おれ」の愚痴のような言い訳に付き合わされる。しかしあるとき、右翼の街宣活動のサクラを頼まれた「おれ」は右翼思想に感化を受け、その場で右翼団体に加入する。そして「右翼少年」としての自分に目覚める。その後右翼団体での活動や右翼思想を学ぶことを通じて「自意識の過剰さ」から解放されてアイデンティティーが定まる。学校でも一目置かれる存在となる。「セブンティーン」の第一部は安保反対のデモ隊との闘いの中、高揚感に満ちた「おれ」の描写で幕を閉じる。第二部である「政治少年死す」は高揚感に満ちた第一部の続きから始まる。安保反対のデモの終わり、そして安保条約の自動延長。その中で祭りが終わったような虚脱感と空しさに包まれる主人公。そうした中、主人公の所属する右翼団体にも波乱が訪れる。そんな波乱の中で次第に思想的にも行動的にも先鋭化していき、「おれ」がある代議士の襲撃に至り、自死するまでの内面が描かれる。 * * *前述のとおり「セブンティーン」を初めて読んだのは1995年頃で、僕の心に残った作品だった。僕はこの小説を、自分のよって立つ思想的基盤を例えば「オウム真理教」に求めてしまった悲喜劇と同様なものであるとして読んだ。著者は(「セブンティーン」第一部では)右翼思想を間違ったものとして描いてなく、その「思想」を得たことで主人公は生きる価値を見出している。そうした「何かを信じる」ということのパワーは、例えば「オウム真理教」でも変わらないのではないか。今回改めて「政治少年死す」を合わせて読むことができた。そうすると1995年には見えなかったことが見えてきた。そんな今回新たに発見できた「セブンティーン」二部作の感想を書いていきたい。まず二部作全体を見てという視線。「セブンティーン」二部作は右翼側のアンガージュマンを描いたものではないかということだ。不根拠で無意味にすら思える生を過ごす17歳の少年が右翼思想の中で自分の使命を悟り、(そのときの天皇である)昭和天皇に自分の存在全てを賭ける。そのとき主人公は日本の歴史や祖先たちの偉業とつながることができ、自分がその歴史の中で果たすべき役割に気付く。それによりひ弱な自意識から解放され、そして歴史的使命たる自分の役割に従って行動していく。それはある意味で「投企」といえるようなものではないのか。もう一つは昭和天皇のカリスマ性だ。主人公は例えば自死の真っただ中で天皇に対して必死に呼びかけている。それは主人公が「天皇」と一体化することで日本の「伝統」や歴史とも一体化できると信じているからだ。このような強力な磁場を持つ「天皇」は昭和天皇だからあり得たのだ。改めてそのようなことを感じた。次は「政治少年死す」を読んで思ったことを書きたい。まず第一。「セブンティーン」では「自意識過剰」という問題が解決したようだったが、代議士刺殺に至る過程で、また自意識過剰の問題が浮上してくる。強固な右翼思想をもってしても完全に「自分」から逃れることができない。「おれ」は右翼であろうと左翼であろうと「おれ」でしかない。動物的な生理が思想に亀裂を与えるように右翼思想は「おれ」の自意識を完全に克服することができない。それがある意味で皮肉に描かれている。第二。主人公が自死に至るまでの過程が崇高なものとして描かれていない。「おれ」は鑑別所で生活することを怖れる。それはかつて自分をイジメていただろう今で言う「ヤンキー」の巣窟に収容されるということだからだ。そこで屈辱を受けるだろうと思い、鑑別所の生活を怖れる。そして自分を選ばれた少年として完結したい。そう考えて自死に至る。それはつまりこの事件を「おれ」は純粋な憂国の念や愛国心から起こしたのではない。「おれ」は自分が偉大な「何か」になりたいから事件を起こした。そして自死に至る過程でも世間からどう思われたいかということを気にしている。他人の評価が気になっている。第三。自死自体も矮小化されて描かれている。天皇と一体化するため、天皇陛下に呼びかけて自死する「おれ」。その亡骸を警官が収容するときに、わざわざわいせつ行為で捕まったロリコン少年の**(楽天ブログの公序良俗規定に反しているとの判定で伏字)を思わせる描写で物語を終えている。憂国の士の勇敢な死ではなく、一人のある少年のありふれた自死という描かれ方だ。そのような描写がなくても、物語はスムーズに終わらせることができるのに、著者はわざわざそのような描写を書いている。以上のような三点がその当時の右翼団体の逆鱗に触れたのだろう。そんなことを感じた。「政治少年死す」では、広島を舞台にした場面で大江とよく似た青年作家が登場する。ここで右翼少年の「おれ」と対決し、応答する様子が描かれる。青年作家は「おれ」を恐れ、恐怖心にとらわれながらもギリギリで踏みとどまり、自分のモラルに従って右翼の「おれ」と対峙している。そんな青年作家だけれども、実は彼は男色と酒にまみれた生活をしていることが明らかになる。これはそうした乱れた生活から生まれる「思想」を右翼思想と対置してみたのではないだろうか。そして大江は前者の思想に賭けていた。それがどれほど乱れていて浮き草のようなものであっても、そこに可能性があると賭けていた。そんなことを感じた。 * * *2023年に改めて「セブンティーン」二部作を読むと、「おれ」がある意味で「ネット右翼」のステレオタイプであるように思える。不根拠な生を生き、自意識過剰な「わたし」に、右翼思想やナショナリズムが心の隙間を埋めてくれるようにピタリとはまってしまうように思える。大江健三郎というと戦後民主主義の代表というイメージが大きい。その大江が「セブンティーン」二部作という思考実験で、自分がよって立つ思想的基盤が意外と不確かであることを示してしまった。しかし大江は右翼思想を良しとはしなかった。「政治少年死す」で、その思想を生きる主人公を描くことで、思想の破綻の一例を示した。ならばどちらが「生き易い」のだろう。自意識の問題。ナショナリズムの問題。リベラルな思想が弱い自分を助ける根拠となり得るのかという問題。戦争直後も、それから60年以上経った僕らも人間は変わらない。そんなことを「セブンティーン」二部作を今読んで思った。大江健三郎全小説 3/大江健三郎【3000円以上送料無料】性的人間 (新潮文庫) [ 大江 健三郎 ]