2008/10/28(火)02:41
「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を鑑賞
きょうは、大阪・南港の「サントリーミュージアム・天保山」へ「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見に行きました。
この美術館は今年は初めてです。
変な言いかたですが、今やっている展覧会は“鳴り物入り”の逆です。
予定されていた展示物に‘いちゃもん’が付き、目玉のはずの絵画がことごとく展示中止に追い込まれ、‘これ’といって見たい画家の作品がなくなってしまっているので、「もしかしたら、人出は少ないかも・・・」と思っていましたが、美術館の前まで来て、「・・・」。
確かに、土曜日のこの美術館にしては人気(ひとけ)があまりにもありません。
そして、建物に吊るしてある垂れ幕に、今やっている展覧会の名前が書いてないのです。
建物に入ってもひっそりとしていて、コイン・ロッカーに荷物を入れて、フロントで発券の手続きをしてチケットを受け取り、5階のミュージアムの入り口まで行きました。
まず、チケットもぎりの前に紙が張ってありました。
展示予定だった作品のうち、シャガールの『女の肖像』、『家族』、『ヴァイオリン弾き』、ジャン・プーニの『静物』2点と『ランプのあるコンポジション』、カンディンスキーの『海景』について、それぞれの権利保有者より「作品の真正について疑いがある」という連絡を受けたために、展示を見合わせることにしたと書いてありました。
シャガールとカンディンスキーの併せて4点が展示中止ということで、この2人の画家の作品の展示は皆無です。
これでは人は呼べないと思いました。
チケットを差し出すと、「よければ、間もなく見どころ解説が始まりますので、どうぞ。10分程度です」と言われたので、すぐ横のレクチャー・ルーム(?)に入って、解説を聞くことにしました。
解説はスライドを使って、人が‘生’の声でほぼ朗読するだけ(≒棒読み)という、珍しい形で行われました。
・・・どうしてビデオでやらないんだろう。。。
でも、10分程度の解説なら飽きずに、かつ、要領よく聞けるのでいいですね。
そして、展示室のほうへ進みました。
まずは「1-1.西欧の影響とネオ・プリミティヴィズム」。
20世紀初頭のロシアの画家たちの作品です。
ロシアの画家の展覧会もたまには見るのですが、これといって強い印象を受ける画家もなく、また、名前がどうしても覚えにくいという‘欠点’があります。
ただ、ヨーロッパの見慣れたタッチの作品とは違い、‘ロシア的’だなという感じは持ちます。
マリューティンの『タバコを吸う人物』などはその典型で、初めて見ても、「これを描いたのはロシア人なのでは?」と感じるほどの独特のタッチでした。
ローザノヴァの『汽車のあるコンポジション』は未来派の絵だとはわかるのですが、イタリアのそれとは違うとも感じ取れました。
クリューンの『蓄音器のあるコンポジション』とともに、典型的に当時の‘最先端’の機械を賛美していて、それでいてどこか、マレーヴィッチの典型的な作品と共通するものがあるように感じられました。
それにしても、ロシアの美術館から借りてくる作品は‘むき出し’のものが多くて、筆遣いまで見えるのがうれしいです。
レントゥーロフの風景画は、未来派とキュビズムの両方の要素が感じられる絵でした。
次は「1-2.見出されたピロスマニ」。
ピロスマニという画家は日本ではまったく知られていないと思いますが、グルジア出身の画家で、以前書いたフランスのボーシャンと同様、美術教育は受けたことがなく、独学で絵を習得し、これまた同様に、素朴派(稚拙派)に属する画家です。
絵は、もちろんルソーに共通するところは十分に感じられるし、ボーシャンと同様で意外なところが細かかったりします。
マチエールは全体的に薄塗りで、筆跡がわからないほどのものもありました。
『雌鹿』や『小熊を連れた母白熊』などは、背景の複雑さを廃し、動物に愛情を注いで描いたのが感じられ、どこか日本の(広い意味での)花鳥画を思い起こさせました。
この画家は、日本では画家としてでなく、あるエピソードにまつわる人物としてなら知っている人が多いかもしれません。
加藤登紀子がシングルにして発表した『百万本のバラ』という歌を知らないでしょうか。
また、‘あの’久保田早紀が結婚引退後に名前を久米小百合として同様に発表した同名のシングルもあります。(加藤登紀子の歌と久米小百合の歌では、歌詞がまったく異なります。)
その『百万本のバラ』の歌詞に歌われている「貧しい画家」が、このピロスマニなのです。
私は久米小百合のこの曲が好きで、初めて聞いたときは実際に鳥肌が立ちました。
---♪「百万本のバラ」 by 久米小百合---
作詞:A. Voznesenskij 訳詞:松山善三 作曲:R. Pauls
~信じてくれますか 1人の若者が
~小さな家を売り バラを買いました
~信じてくれますか 嘘だと思うでしょ
~町中のバラを 貴方に贈るなんて
~バラを バラを バラを下さい
~ありったけのバラを下さい
~あなたの好きなバラの花で
~あなたを あなたを あなたを包みたい
(中略)
~貧しい絵描きの僕に 出来るのはひとつ
~何もかも捨てて 貴方を想うこと・・・
ちなみに、久米小百合のシングルのジャケットには次のような説明が書いてあります。
「この歌は、ソ連のポピュラー歌手の第一人者アーラ・プガチョワが大ヒットを飛ばした曲で、『ソチ』という地方で本当にあった話から作られました。貧しい絵描きが、公演に訪れたバレエ団の団員に一目で恋をしました。彼女は花が大好きだと聞いた絵描きは、家も作品もすべて売り尽くして買える限りのバラを買い、名前も告げずに彼女にプレゼントしたのです。」
久米小百合はそれほど声量のある歌手ではないかもしれませんが、高音の伸びがきれいで、この曲では哀愁漂う声と相まって、何とも悲しげな感じが漂っています。
アレンジもほどよく東欧的でエキゾチックで、家に帰ってから何度も聞き返しました。(笑)
次のコーナーは「2.マレーヴィチと抽象の展開」。
ようやくまずまずの大家の名前が出てきます。
しかし、ロシア(ソ連)の抽象画を語るときに、カンディンスキーの作品がまったくないのは問題だと思いました。
また、さらに「できれば、モンドリアンの作品があれば・・・」とも思いましたが、どちらもありませんでした。
ロシアの未来派は「立体未来派」と呼ばれ、三角形、四角形、円、十字形を重んじたのだそうです。
マレーヴィチの作品などは確かにそうだと思いました。
並べて展示してある『刈り入れ人、1909年のモティーフ』、『農婦、スーパーナチュラリズム』、『農婦、1913年のモティーフ』を見ていくと、最後には顔が‘のっぺらぼう’になるなど、徐々に抽象化していくのがわかります。
他の画家たちの作品にも、タイトルが『コンポジション』や『無題』というのが出てきて、それが‘カッコいい’時代だったのだろうと思いました。
最後は、「3.1920年代以降の絵画」。
コーナーのはじめの解説パネルには、「革命の熱気が冷めた20年代のロシアでは、ネップ(新経済政策)と呼ばれる市場経済が導入される。抽象絵画は個人的と批評され、(中略)アヴァンギャルドは、陶器やポスター、服飾、建築などのデザインの分野に向かった。一方で、20年代の半ば以降、リアリズム的な傾向の画家の団結が強まる。(中略)1932年、スターリンの意向を反映した党中央委員会は、すべての芸術団体の解散を命じ、社会主義リアリズムが唯一の創作方法とされるようになる」と書いてありました。
要するに、芸術にまで国が口出しするようになったということですね。
確かに、人物を描いた絵ははっきりそれが人物であることが認識できるものだったし、やたら難しい発想で見なくても、何が描いてあるのかは、表面的には見てすぐにわかるようになっていました。
マレーヴィチでさえ、晩年に描いた『自画像』は写実的で、「これがマレーヴィチの絵?」と思うような作品でした。
展示室に入る前の解説を聞いた時間を含めて、ちょうど1時間半でした。
やはり、シャガールもカンディンスキーもなくて20世紀前半のロシアの美術の展覧会をされても、‘抜けた’ような感じが否めませんでした。
そして、心配していたとおり、図録は発売中止になっており、売っていませんでした。
かなり物足りない感じの展覧会でした。
大阪に巡回して来る前に東京で展覧会が行われたときには、現在展示中止になっている作品の問題は起きていなかったので、東京での会期のはじめのうちに行った人は展示予定の作品もすべて見られたはずだし、図録も購入できているんですよね。
この図録って、そういう意味で‘稀覯(きこう)品’かも。。。