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京都19
宇治57
沖縄30
心に残る歌詞26
泣ける話21
笑える話23
全21件 (21件中 1-21件目)
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カナダを1人旅中,どこかの駅(忘れました)で,ありったけのクオーター(25セント硬貨)を電話の横につんで,国際電話をかけようとしたら,男の人が話しかけてきて(もちろん英語!)「どこにかけるんですか?」「日本です」というような会話をしたら,つんでいる25セントを見て,「ハッハッハ~そんなんじゃ話できないよ」というようなことを言われました。(意訳&私の0に近い英語力での解釈ですが…)その人は,お財布から自分のクレジットカードを取り出して,多分そのカード会社に電話をしながら,私にかけたい番号を聞いてきたので,番号を言ったら,カード会社の人に「日本の××ー××につないでください」というようなことを言ってくれたんだと思います。その受話器を渡されると呼び出し音が鳴っていて,かけたかった相手につながりました。私が受話器を持ってる間に,その人は「じゃあね」という感じで歩いて行ってしまったので,私は電話の相手に「元気だから,じゃーね」とだけ言って大慌てで電話を切って追いかけていったのですが,「Thank you!」しか言えなくて…。さらにその人は,私があまりにも早く電話を切ったからか,「話はもういいの?」とまで言ってくれました。見ず知らずの私にしてくれた親切と,それに対する感謝が思うように伝えられなくて,その人が去って行ったあと,大泣きしてしまいました。
2005年07月07日
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アルゼンチンのプロゴルファー、ロベルト・デ・ビンセンツォはあるトーナメントで優勝し、賞金の小切手を受け取って帰る準備をしていた。彼が一人で駐車場に向かっていると、一人の女性が彼に話しかけてきた。彼女は彼の勝利をたたえた後、自分の子供は重い病気にかかって死に掛けているがお金がないために、医者に見せることもできないのだと彼に伝えた。それを聞いて哀れに思ったビンセンツォは「これが子供のために役立てば良いのだけど」といって、獲得したばかりの賞金の小切手を彼女に握らせた。 翌週、彼がカントリークラブで食事をしているとテーブルにゴルフ協会の職員がやって来た。「先週、駐車場にいたやつらが、君がトーナメントで勝った後、そこで若い女性に会っていたといっていたが・・・」ビンセンツォはうなずいた。「実は」と職員は続けた。「彼女は詐欺師なんだ。病気の赤ん坊なんていないんだ。結婚すらしていないんだよ。君はだまされたんだ」「すると、死に掛けている赤ん坊なんていないのか?」「そのとおりだ」すると、ビンセンツォは笑いながらこう言った。「そうか。そいつは今週で一番の良い知らせだ」と。
2005年04月27日
「ちょっとスチュワーデスさん!席を変えてちょうだい」 ヨハネスブルグ発の混んだ飛行機の中で、白人中年女性の乗客が叫んだ。「何かありましたか?」 「あなたわからないの?黒人なんかの隣には座りたくないのよ!こんな人迷惑だわ」女性の隣では、黒人男性が憮然とした顔で座っている。 「お客様、少々お待ち下さいませ。空いている席を確認してきます」乗務員は足早に立ち去り、周囲の乗客はざわざわと不穏な空気。 しばらくして乗務員が戻って来た。 「お待たせしました。ファーストクラスにひとつ空きがありますので、どうぞそちらへ。本来ならこういうことはできないんですが、隣の席がこんな人では確かに迷惑でしょうと、機長が特別に許可しました。さ、どうぞ」周囲の乗客は、にこやかに黒人男性を見送った。
2005年04月26日
∧,,∧ (;`・ω・) 。・゚・⌒) チャーハン作るよ!! / o━ヽニニフ)) しー-J Λ,,Λ (::::: )・゚。 今日も独りで食べるよ… (::::::::.. つニフ  ̄ ̄と とノ ̄ ̄ Λ,,Λ ゴシゴシ (::::: ∩゙。 (::::::::. ノニフ  ̄ ̄と とノ ̄ ̄ ̄ Λ,,Λ (:::´・ω)。 な,泣いてないよ! (::::::::..つニフ  ̄ ̄と とノ
2005年04月25日
貫きたい想いがあったとしても人は状況によって簡単に想いを変えてしまうだから私は今まで人を信じたことなかった幼い頃、たまたま旅行に来てたホテルで火事になった。煙で前も見えず、聞こえるのは叫びだけ。長年つれそった妻でさえも置いて逃げる人自分の命が大事で子供さえも突き飛ばし先に逃げようとする従業員誰一人として自分を優先してるとしか思えなかった恐かった。迫りくる火よりも人の本性がそんな想いを隠しながら生きてきた。誰も信じず一人で生きてきた。その中で大地震は起こった忘れもしない次第に大きくなる揺れ、倒れる柱、割れるガラス、立つことさえもできない、何が起こっているのか考える暇をあたえない気が付くと倒れてきた柱によって私は下敷きになってしまっていた。あぁ、終わりだ。生きたとしても恐かった。また人の本性を見てしまうのが‥助けなんて期待しない。ただ死ぬのを待っていた。そんな時、声が聞こえた「待ってろ!今、助けてやる」隣の家の人だった。見ると右手にヒドイ傷を負っている彼は両手で柱を持ち上げた。信じられない。その人は大工だ。そんな事したら傷がヒドクなり右手が使えなくなる「手が開いてるヤツ手伝ってくれ!」彼はそう叫ぶと人が次々に現われた皆、傷を負っている。知らない他人を助けるために自らを犠牲にしてまで、かけつけてくれた。幼い子供ですら来てくれた。助けだされた私はお礼を言い謝った。そうすると彼は告げた「ははは!人の手はな、守る為にあるもんだ!ははは!」涙が出た。周りを見ても息子をカバって下敷きになってしまった人妊婦にパンを笑顔で渡す食べ盛りの幼い子供犬でさえも必死になって助けようとする人々。火が上がってる家に飛び込み助けようとする人身内どころか他人なのに必死だった一人も…誰一人として自分を優先にしてる人などいなかった大人になった私は、消防士になった。自分のこの手で沢山の人を助けようと思う。
2005年04月06日
俺さ、産まれた時から酷い小児喘息だったのよ。夜中にかーちゃん起こして病院連れてってもらうなんてしょっちゅうだったし、小学校あがって更に病状が悪くなって。もちろん体育なんかでれないし、みんなと外で遊ぶ事すらできなかった。んで、小五になってからほぼ毎日病院行って吸入するくらいまで悪化しちゃって、そのまま3週間入院する事になって。。。んでね、そん時4人部屋の病室だったんだけど二人はおばあちゃんとおじさん、んでもう一人は俺と同い年くらいの女の子だった。俺、昔からすげぇ人見知りが激しい上に物凄い照れ屋で、なかなかその同室の人達と仲良くなれないで一人で勉強してるかゲームボーイやってるかだったのよ。そん時家から持ってきたソフトが「Saga2」で、もう一回クリアしたやつだったんだけどヒマだしもっかいやるかな、って毎日やってたワケさ。んで入院して一週間立った頃、俺がゲームボーイやってる時はなんかその同室の女の子がじーっとこっち見てる事に気づいたんよ。俺が彼女の方みると慌てて目逸らすんだけどね。もしかしてやってみたいのかな?と思って、「良かったらコレ借そうか?」って聞いたのよ。そしたら目ぇ輝かせて「いいの?」っていうもんだから、「もう飽きたからな」とか照れ隠しして借してあげたさ。でも案の定操作が分からないらしく、画面とずっとにらめっこしてるもんだから俺が操作教えながら一緒にゲーム進めることにしたんよ。パーティーは人間・男の主人公「リョータ(俺の名前)」で、仲間は人間・女「さやか(彼女の名前)」あとはエスパーガールとロボットにそれぞれ同室のばあちゃんとおじさんの名前つけたっけ。それからどんどんそのコと仲良くなって、二人でゲームボーイやるだけじゃなく、色んな話もするようになった。学校の事、家族の事、好きな音楽の事、近くに迫った夏休みの事…それからの時間はあっという間だった。すぐに俺が退院する時がやってきた。看護婦や同室のおじさん、ばあちゃん達が口々に「おめでとう」って言ってくれてる中彼女だけ泣いてた。それ見て俺も泣きそうになったさ。でもグッと堪えて「オマエ退院するまでコレ借してやるよ。退院したら連絡くれよな」ってそのままゲームボーイとSaga2置いていったのよ。それから何回もお見舞しに行こうと思った。…でもいざ行こうかと思うとなんか照れくさくて行けなかった。連絡がないまま1年半が過ぎて、俺も小学校を卒業する頃になった。せめて卒業前にもう1度会っておきたいな、と思って意を決してお見舞に行く事にしたんよ病室に行ったけど彼女はいなかった。病室入口の名前欄にもない。もうとっくに退院してたのかな…?と思ってとりあえずナースセンターで聞いてみた。「遠い所にいった」とかうまくはぐらかされたけど、俺も小6だったし、そこまでバカじゃない。その場の空気や後ろの看護婦が泣き出したのを見ても明らかだった。俺がショック状態で呆然としてる中、その看護婦が「ああ、そういえばさやかちゃんから、リョータ君が来たら渡しといて、って言われた物があるのよ」と言って俺にそれを渡してくれた。借してあげたゲームボーイとSaga2だった。俺はそれを受けとって家に帰った。帰るなりメシも食わないで、暗い自分の部屋でゲームボーイのスイッチを入れた。懐かしいあのOPの音楽。それと一緒にでてくるロード画面。一つは彼女と俺が一緒にプレイしたデータ。あの時からほとんど変わってない。懐かしさと悲しさで胸がいっぱいになった。もう一つのデータはやたらレベルの低いデータだった。最初から始めてすぐ飽きたんかな?と思ってそのデータをロードしてみた。パーティー四人の名前がこうなっていた。「リョータ」「いろいろ」「ありがと」「バイバイ」…今でもSaga2のOPの曲を聞くと涙が出るよ。お見舞行ってあげられなくてゴメンな…。
2005年04月05日
ヘタレバツイチ男は、今日も仕事で疲れきって、遅くなって家に帰ってきた。すると、彼の5歳になる息子がドアのところで待っていたのである。彼は驚いて言った。「まだ起きていたのか。もう遅いから早く寝なさい」「パパ、寝る前に聞きたいことがあるんだけど」「なんだ?」「パパは、1時間にいくらお金をかせぐの?」「お前には関係ないことだ」ヘタレなリーマンである父親はイライラして言った。「なんだって、そんなこと聞くんだ?」「どうしても知りたいだけなの。1時間にいくらなの?」男の子は嘆願した。「あまり給料は良くないさ…20ドルくらいだな。ただし残業代はタダだ」「わぁ」男の子は言った。「ねえ、パパ。ボクに10ドル貸してくれない?」「なんだって!」疲れていた父親は激昂した。「お前が何不自由なく暮らせるためにオレは働いているんだ。それが金が欲しいだなんて。だめだ! 早く部屋に行って寝なさい!」男の子は、黙って自分の部屋に行った。しばらくして、父親は後悔し始めた。少し厳しく叱りすぎたかもしれない…。たぶん、息子はどうしても買わなくちゃならないものがあったのだろう。それに、今まで息子はそんなに何かをねだるってことはしなかった…。男は、息子の部屋に行くと、そっとドアを開けた。「もう、寝ちゃったかい?」彼は小さな声で言った。「ううん。パパ」男の子の声がした。少し泣いているようだ。「今日は長いこと働いていたし、ちょっとイライラしてたんだ…ほら。お前の10ドルだよ」男の子は、ベッドから起きあがって、顔を輝かせた。「ありがとう。パパ!」そして、小さな手を枕の下に入れると、数枚の硬貨を取り出した。父親はちょっとびっくりして言った。「おいおい、もういくらか持ってるじゃないか」「だって足りなかったんだもん。でももう足りたよ」男の子は答えた。そして、10ドル札と硬貨を父親に差しのべて言った。「パパ。ボク、20ドル持ってるの。これでパパの1時間を買えるよね?」
2005年04月04日
子供の頃の話だけど俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。いままで俺のお下がりを折って着ていたから。母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。去年俺は結婚したんだけど、結婚式前日に母に大事そうに錆びたハンドクリームの缶を見せられた。泣いたね、、。初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って。
2005年04月02日
真実はどこに… 昭和19年 祖父はフィリピンにいました。 私と同じ23歳の祖父です。 フィリピンは日米の戦争に巻き込まれていました。 連日、海にはアメリカ艦隊の大群が押し寄せたそうです。 ミッドウェー海戦以降の日本軍は大東亜戦争初期の勢いは無く、 豊富な物資と強大な工業力をもつ米軍に徐々に追い詰められていきました。 そんな中昭和19年6月15日、 本土防衛の為の重要拠点であったサイパン島が米軍に攻略された。 これによりB29による本土爆撃が可能となった。 フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であり、米軍が獲得に動いた。 フィリピンを守る第一航空艦隊の当時の戦力は零戦約40機しかなかった。 これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた。 大西中将は遂に 「零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、 確実な攻撃法はないと思うがどんなものだろう?」 と体当たり攻撃を部下達に提案した。 この時、全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。 当時の戦況、そして搭乗員の士気というのはそのようなものであった。 神風特別攻撃隊の編成 攻撃隊が結成された翌日 戦闘機の整備兵をやっていた祖父に 特別攻撃隊の友人が語った言葉です。 『もう戦争は続けるべきではない』 しかし、敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。 アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。 歴史に見るインデアンやハワイ民族のように闘魂のある者は次々各個撃破され、 日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。 このためにも特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。 しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない、 では何故見込みのないのにこのような強行をするのか。 ここに信じてよいことがある。 いなかなる形の講和になろうとも 日本民族が将に亡びんとする時に当たって 身をもってこれを防いだ若者たちがいた という歴史の残る限り 五百年後、千年後の世に必ずや 日本民族は再興するであろう。 大空に雲は行き雲は流れり すべての人よさらば 後を頼む 征って参ります 人は一度は死するもの 微笑んで征きます 出撃の日も そして永遠に イッテマイリマス ノチノニホンニエイコウアレ 私が高校生の時、祖父とフィリピンに行きました。 「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭に参加するためにです。 フィリピンの方々が日本国旗を振ってくれました。 東南アジアの国々から常に 戦争の責任を追及されていると思い込んでいた私は驚きました。 神風特攻隊は戦後の日本では“戦争の悲劇” の代名詞としてしか語られていません。 しかしフィリピンでは捉え方がまったく違っていました。 式でフィリピンの方のスピーチです。 当時、白人は有色人種を見下していました。 これに対して日本は、世界のあらゆる人種が 平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。 神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する 力による最後の“抵抗”だったといえましょう。 そして、アジア内で唯一、抵抗してくれたのです。 かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。 立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。 これは日本が統治下で施した“教育”の成果です。 ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、 自分たちでモノを作ることを学ばせてもらえなかった。 人々は鉛筆すら作ることができなかったのです。 アメリカが自分達の作ったものを 一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした。 フィリピン人は日本で伝えられているような “反日”などではなく、むしろ親日的です。 フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりもリアリストです。 戦争があれば多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。 ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません。 フィリピン国歌にも 「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」 という一節があるくらいです。 欧米人のアジア観に多大な影響を与えた 神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ そしてその勇気が称賛されいてる。 日本人はこうした現実も認識する必要があります。 今、自由に発言できること ご飯を食べられること、感謝しましょう。 そして日本人が日本を好きになってほしい。 じいちゃんは小さい肩を震わせて泣いていました。 私は一つ、真実を知ることが出来ました。 END
2005年03月09日
ジェリーが大人になった頃トムはもうこの世にいませんでした。トムは自分の命の終わりがすぐ傍まで来ているのを知ったとき、こっそりジェリーの前から姿を消しました。ジェリーの前で弱って涙もろくなった自分を見せたくなかったのです。トムはジェリーの心の中ではずっと喧嘩相手として生きつづけたかったのです。トムがいなくなったのに気づいたときジェリーは悲しみはしませんでしたが、退屈になるなと思いました。トムとの喧嘩は最高にスリルのあるゲームでしたから。胸の奥が不思議にチクチクはするのですが、それが何なのか、ジェリーにはよくはわかりませんでした。トムの願い通り、ジェリーの心の中でトムはいつまでも仲の悪い喧嘩相手でした。そんなある日ジェリーの前に一匹の猫が現れました。トムよりのろまで体も小さい猫です。喧嘩相手のトムがいなくなって寂しかったジェリーは、今度はこの猫を喧嘩相手にしようと考えました。そこでジェリーは、穴のあいた三角チーズが仕掛けられたねずみ取りを利用して、その猫に罠をかけることにしました。いつもトムにしていたように。ジェリーは物陰に隠れて、ねずみを求めて猫がねずみ取りの近くに来るのを待っていました。そして思惑通り猫が罠に向かって近づいてきます。ジェリーはしめしめと思いました。いつものように、自分がねずみ取りにひっかかるふりをして、逆に猫をねずみ取りにかけてやるんだ。うふふ。手か尻尾を挟んだ猫の飛び上がる姿が頭に浮かび愉快です。でも、その猫はトムではありません。猫はチーズの近くまで来たとき、ジェリーが出てくるより早く美味しそうなねずみの匂いに気づき、目にもとまらぬ速さで隠れていたジェリーに襲いかかってきました。ジェリーはいつもトムから逃げていたように逃げましたが、トムよりのろまなはずの猫にすぐに追いつかれてしまい、体をガブリと噛まれました。ジェリーも噛みつき返しましたが、トムより体が小さいはずの猫は平気です。血まみれのジェリーは薄れ行く意識の中で、本当は鼠が猫と喧嘩して勝てるわけがないことと、いつもトムはジェリーに「してやられた」ふりをして、わざとジェリーを捕まえないでいたことを、そのとき始めて知ったのです。トムの大きな優しさと友情に気づいたのです。そしてトムがいなくなった時の胸の奥のチクチクの正体にも気づきました。かけがえのない友を無くした悲しみでした。ジェリーの魂が体を抜けた時、空の上には優しく微笑みジェリーを待っているトムがいました。「また喧嘩ができるね」「のぞむところさ、今度こそは捕まえてやるぞ」
2004年12月27日
南洋のパラオ共和国にはちいさな島がいくつもある。そんな島にも戦争中はご多分に漏れず日本軍が進駐していた。その島に進駐していた海軍の陸戦隊は学徒出身の隊長のもと、住民たちとの摩擦を避け、作業に住人を駆り出す時も必ず代価を払い、よき隣人として和気藹々たる戦地生活を送っていた。中でも住人たちに喜ばれたのは音楽の心得のある兵隊による唱歌の演奏で、そのうち、島の人々も「ふるさと」「さくら」などの曲を歌えるまでになった。しかし戦況は刻々と日本に不利な情勢となっていき、この島にも米軍の襲来が避けられえない情勢へと変っていった。島の若者達は相談して、ある夜、日本軍の守備隊長を訪ねた。どうか我々も仲間としてあなたたちと一緒に戦わせて欲しいという志願のためだった。その話を聞いた隊長はみるみる内に怒色を満面に浮かべて椅子を蹴り上げ叫んだ。「我ら帝国海軍の軍人が、貴様ら如き未開の土人どもと共になど戦えるか!貴様らなど戦の邪魔だ。3日の猶予を与える。パラオ本島に出て失せろ!」あれほど日本人は東洋融和の仲間だと言っていたのに見せかけだったのか・・島の人々は悔し涙を流した。いよいよ島を去る日、桟橋にとぼとぼと集まった住民。当然ながら兵隊たちは誰も見送りになど来ない。悄然と船に乗り込み、船が陸地を離れたそのとき、どこからともなく砂浜にたくさんの日本兵達が現れた。「ウサギ追いしかの山!小鮒釣りしかの川!」と歌いながら千切れるほどに戦闘帽を振る水兵達。そしてその先頭にはあの守備隊長が。満面の笑みで歌いながら帽子を振っていた。島の人々はその時に気づいた。あの夜の言葉は自分達を生かすためのものだったのだと。2週間後、米軍の海兵隊は周辺地域に殺到。224名の日本軍は全滅した。
2004年12月22日
とある南の離島で同宿になった男の人、Sさん。さえない中間管理職といった感じ。南の島にくるには随分な格好をしていた。訊くと、「羽田でパンフレットを見て、良さそうだったのでそのままやって来た」とのこと。おとなしめの人だったけど、見るもの食うもの触れるものにいちいち感動してた。何故か気も合ったので、夜は呑んだくれたり、昼はどこからか貰ってきたトマトを分け合って浜辺でかじったり・・・島の雑貨屋で買った似合わないサングラスをかけて、この旅行を心底満喫しているみたいだった。宿の主人と見送りに行った港では、妙に熱くて長い握手をされて、なんだか照れ臭かった。ドラが鳴って、だんだん遠くなる定期船。横で一緒に手を振っていた宿の主人が、ぼそっと「Sさん、ついこのあいだ、奥さんが亡くなられたんだって・・・そういう旅なんだって」本当に見えなくなるまで、たくさん手を振ってあげることしかできなかったけど。。。デッキのうえで、小柄な彼はぴょんぴょん飛び跳ねながら、誰よりも一所懸命手を振り返してくれていた。元気かなぁ。
2004年12月20日
とある南の離島で同宿になった男の人、Yさん。さえない漫才師といった感じ。南の島にくるには随分な格好をしていた。訊くと、「事務所でスケジュール見て、良さそうだったのでそのままやって来た」とのこと。おとなしめの人だったけど、見るもの食うもの触れるものにいちいち激怒してた。何故か気も合ったので、夜は呑んだくれたり、昼はどこからか盗んできたトマトを分け合って浜辺で投げあったり・・・島の雑貨屋で買った似合わないサングラスをかけて、この旅行を心底後悔しているみたいだった。宿の主人と見送りに行った港では、妙にシカトされて、なんだか照れ臭かった。ドラが鳴って、だんだん遠くなる定期船。横で一緒に手を振っていた宿の主人が、ぼそっと「Yさん、ついこのあいだ、相方が亡くなられたんだって・・・そういう旅なんだって」本当に見えなくなるまで、たくさん手を振ってあげることしかできなかったけど。。。デッキのうえで、小柄な彼はぴょんぴょん飛び跳ね、あっという間に船首から落下。一所懸命泳いでいたがやがて波間に・・・・。死んだかなぁ。
2004年12月19日
飼っていた猫がウイルス感染で白血球減少症になった。餌も食えず、水も飲めず、うずくまったまま動くこともできず時折苦しげなうめき声を上げて血の混じった胃液を吐くだけの猫。獣医さんに連れて行ったら正常なら一万あるはずの白血球が百しかない、もう助からないと言われた。獣医さんからの帰り道、助手席の段ボール箱に入れた猫。動けないはずなのによろよろと這い出して私の膝に乗った。そして動かなくなった。嗚咽どころじゃない、ダーダー涙が出て前が見えないくらいだった。家に着いたらまだ息があった。つーか、今も生きている。紛らわしいまねすんじゃねーよ。ホントに死ぬときは泣いてヤラネ。
2004年12月15日
20年前ぐらいの前の話当時俺の家はいわゆる片親ってやつで、すげぇー貧乏だった。子供3人養うために、かぁちゃんは夜も寝ないで働いてた。それでもどん底だった・・・俺は中学卒業してすぐ働きに出た。死ぬほど働いた。遊んでる暇なんてなかった。1年ぐらいして同級生に久しぶりに会った。飯食いに行こうって話になった。メニューの漢字・・・読めなかった。読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。同級生は「焼きそばとごはん」って注文した。無知な俺は「じゃあ俺はオムライスとごはん」って店員に言った。店員、固まってた。クスクスって笑い声も聞こえてきた。そしたら同級生「さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」・・・店出た後、同級生が一言「うまかったな」って言った。「仕事がんばれよ」って言ってくれた。泣けてきた心の底から人に「ありがとう」って思った。そいつは今でも親友です。
2004年12月07日
20代半ばをすぎて、母親に結婚しろ~孫見せろ~と言われ続ける日々。そりゃ結婚に憧れはあるけども、やりたい事もまだまだあるし、何より相手いないしねorzそんなやりとりの中で、私は母にひどい事を言ってしまいました。心のどこかで、ずっと封印してきた漠然とした不安。「もしこの先、生まれてくる子どもが障害をもってたらどうしよう…」私には知的障害者の妹がいます。母方のいとこにも知的障害者がいます。「遺伝」ということはないのだろうか。差別するとかそんなんじゃなくて、私に育てられるんだろうかと。この考えは、今を一生懸命生きてる妹やいとこはもちろん親戚や母自体をも否定してしまうことになります。だから今まで誰にも言えなかった。言った瞬間の母の顔・・・。「そんなんお母さんが育ててあげるやん!」母はすぐにニヤっと笑って言い放ちました。障害もった子は、この人なら育てられると神様が親を選んで授ける、と聞いた事がありますが、本当かもしれません。たったひとことでいろんな不安が小さくなって、涙がでました。この母に、育ててもらった私ならきっと大丈夫です。本当にひどいこと言ってごめんね。早くいい人みつけるからね。お母さん。
2004年12月06日
私が23歳の頃、就職1年目の冬、私の誕生日の日のこと。職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に、「今日は遅くなるよ。ゴハンいらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と私が言うと、いつもは温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、電話に出た父。食卓にはスーパーで売ってるような鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。「なんでわざわざ帰らせたの!私だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でもよかったね。」と涙ぐんだ。私は言い過ぎたな、と思った。でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実はお母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめんね。」とつぶやいた。呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに「○子に迷惑をかけてしまった。」とあった。ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。夜が明ける頃には涙が出なくなった。すごい耳鳴りがした。4,5日して母は死んだ。仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。母にとっては最後だったのに、、、。こんな情けない自分でも、がんばって生きている。
2004年12月05日
父が死んで一年になる。父は母の再婚相手で、俺が小学生の時に突然父親になった。当初は「父さん」と呼べず、悲しい思いをさせたかもしれない。「○○(父の名)さん」と息子に呼ばれるのはどんな気持ちだっただろう。息子に「本当の父さんじゃないくせに!」と言われる父はどんな気持ちだっただろう。毒づき、当たり散らす息子にとても手を焼いていたと思う。俺が中一の時に事故で両足を折ってしまい、歩けなくなったときがあった。その時期に期末テストで、追試はほぼ決定だと思っていた時、父がおぶって学校まで連れて行ってくれた。学校に近づくにつれて他の生徒の好奇の目に晒されている気がして、俺はとても恥ずかしくなった。実際中一にもなって父親におぶられている俺をクスクス笑う女子もいた。そんな折、ふと父の顔を背中越しに見ると、とても堂々としていた。「自分の息子をおぶって何が悪い?」今にもそう言いそうな表情で。謝罪も感謝の言葉も贈れないまま、父はもう二度と会えないところへ行ってしまった。俺には叶わない夢がある。もし父が歩けなくて困ってしまうような時がきたら俺がおぶってやる。叶わない夢だけど…
2004年12月04日
「沖縄に行かない?」いきなり母が電話で聞いてきた。当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。「どうしても駄目?」「今大事な時期だから。就職決まったらね」「そう・・・」母は残念そうに電話を切った。急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。それから半年後に母が死んだ。癌だった。医者からは余命半年と言われてたらしい。医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。絵日記には「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。母はそれをずっと覚えていたのだ。そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。
2004年12月03日
機械音痴の母がデジカメを買って来た。どうやら嬉しいようで、はしゃぎながらいろいろと写してた。何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく「どうすればいいの?」って聞いてきたが「忙しいんだから説明書でも読めよ!」とつい怒鳴ってしまった。さらに「つまらない物ばかり写してるからだろ!」とも言ってしまった。そしたら「・・・ごめんね・・・」と一言。そんな母が昨年亡くなった。遺品を整理してたらデジカメが出てきて、何を撮ってたのかと気になり中身を見たら・・・そこには俺の寝顔が写っていた。ちょうど桜咲く同じ季節に母と旅したところに、また一人旅に出た。
2004年12月02日
どうして私がいつもダイエットしてる時に(・∀・)ニヤニヤと見つめやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!どうして私が悪いのにケンカになると先に謝りますか(゚Д゚)ゴルァ!どうしてお小遣減らしたのに文句一つ言いませんか(゚Д゚)ゴルァ!どうして交代でやる約束した洗濯をし忘れたのに怒りませんか(゚Д゚)ゴルァ!どうして子供が出来ないのは私のせいなのに謝りますか(゚Д゚)ゴルァ!どうして自分が体調悪い時は大丈夫だと私を突き放して私が倒れると会社休んでまで看病しますか(゚Д゚)ゴルァ!どうして妻の私に心配掛けたくなかったからと病気の事を隠しますか(゚Д゚)ゴルァ!おまけにもって半年とはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!長期出張だと嘘言って知らない間に手術受けて助からないとはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!病院で俺の事は忘れていい男見つけろとはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!こっちの気持ちは無視ですか(゚Д゚)ゴルァ!正直、あんた以上のお人よしで優しい男なんか居ませんよ(゚Д゚)ゴルァ!それと私みたいな女嫁にすんのはあんた位ですよ(゚Д゚)ゴルァ!もう一つ言い忘れてましたが私、お腹に赤ちゃん出来たんですよ(゚Д゚)ゴルァ!あんたの子供なのに何で生きられないのですか(゚Д゚)ゴルァ!そんな状態じゃ言い出せ無いじゃないですか(゚Д゚)ゴルァ!それでも言わない訳にはいかないから思い切って言ったら大喜びで私を抱きしめますか(゚Д゚)ゴルァ!生まれる頃にはあんたはこの世にいないんですよ(゚Д゚)ゴルァ!元気な子だといいなぁってあんた自分の事は蔑ろですか(゚Д゚)ゴルァ!病院で周りの患者さんや看護婦さんに何自慢してやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!病気で苦しいはずなのに何で姓名判断の本で名前を考えてやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!どうして側に居てあげたいのに一人の身体じゃ無いんだからと家に帰そうとしますか(゚Д゚)ゴルァ!どうしていつも自分の事は二の次何ですか(゚Д゚)ゴルァ!医者からいよいよダメだと言われ泣いてる私に大丈夫だよとバレバレの慰めを言いますか(゚Д゚)ゴルァ!こっちはあんたとこれからも生きて行きたいんですよ(゚Д゚)ゴルァ!それがもうすぐ終わってしまうんですよ(゚Д゚)ゴルァ!バカやって泣きそうな私を包んでくれるあんたが居なくなるんですよ(゚Д゚)ゴルァ!忘れろと言われても忘れられる訳ないでしょ(゚Д゚)ゴルァ!死ぬ一週間前に俺みたいな奴と一緒になってくれてありがとなですか、そうですか(゚Д゚)ゴルァ!こっちがお礼を言わないといけないのに何も言えず泣いちまったじゃないですか(゚Д゚)ゴルァ!あんなに苦しそうだったのに最後は私の手を握りしめて逝きやがりましたね(゚Д゚)ゴルァ!何で死に顔まで微笑みやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!(゚Д゚)ゴルァ!(゚Д゚)ゴルァ!そんなのは良いから起きて下さい(゚Д゚)ゴルァ!生まれてくる子供を抱いて下さい(゚Д゚)ゴルァ!子供に微笑みかけて下さい(゚Д゚)ゴルァ!たのむから神様何とかして下さい(゚Д゚)ゴルァ!ダメ女な私にこの先一人で子供を育てろと言いやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!そんなあんたが死んで5ヶ月...子供が生まれましたよ(゚Д゚)ゴルァ!元気な女の子ですよ(゚Д゚)ゴルァ!目元はあんたにそっくりですよ(゚Д゚)ゴルァ!どこかで見てますか(゚Д゚)ゴルァ!私はこの子と何とか生きてますよ(゚Д゚)ゴルァ!あんたも遠くから見守って居てください。
2004年12月01日