カテゴリ:歌舞伎
板東玉三郎・富姫が支配する天守の客人になるべく、久方ぶりの「天守物語」の上演に心躍らされて、7月歌舞伎座・夜の部に四度、足を運んだ。
姫路城の天守には、魔が住まうという伝説がある。 玉三郎の富姫は、そのまま美しい化生として、初演のときから変わることなく姫路の天守にいた。 そして、日生劇場で演じてより、二十数年を経た歌舞伎座の玉三郎・富姫は、姫路城天守の主そのものとなり、「お待ち、天守はわたしのものだよ」の言葉が、ゆるぎなく響くのである。 鏡花の戯曲は,醜く理不尽な人間界の権力を持つものと、美しくも気高いこの世のものではない伝説の化生のものを対比させながら、その境い目(結界)を破って、そいとげようとする美しい愛を謳いあげる。 日本人がもつ美しい自然との調和の心と愛を、近代化へ邁進しするがために捨て去っていくのを、何とか堰き止めようとするかのような思いを込め、言葉となってあふれ出るのである。 幕開き女童が歌う「とうりゃんせ、とうりゃんせ、ここは、どこの細道じゃ♪」は、舞台という異界との結界を開き、観客を舞台に誘う。 白露で、秋草を釣る天守の腰元たちの何と優雅なことか。腰元たちのキモノに刺された秋草(それぞれ模様が異なる)も振袖に揺れて美しくやさしい。 妖しくも美しい富姫が、立ちいで、歩む姿は、人としての重みを感じさせることなく、すべるように、すぅ~と舞台中央に進み、そのすそに乱れがない。 美しい魔・富姫とその妹分で猪苗代の主・亀姫。 亀姫・春猿は、美しい魔物でありながら富姫の好物の生首を手土産に、その無邪気な赤姫姿を、富姫に添う雰囲気は、互いに艶めいて似合いである。 天守に供えられた獅子頭を、二人で「こんな男がほしいねぇ♪」とノタマウ姿は、血のしたたるような妖気が漂いながらも何と美しいことか。 そして、現れる海老蔵の姫川図書之助。 富姫が、涼しい、りりしい、勇ましいと彼を指して語る言葉が、ぴたりとはまり、自分が富姫となって、感嘆したのでは、ないかと思えるほどの若衆ぶりである。 「帰したくなくなった、もう帰すまいと私は思う。」の言葉に、そうありなんと思えるのである。 誰よりも美しく誇り高い富姫が、獅子に向かって「あの方を私にくださいまし。」と言う言葉のなんと切ない恋心。 現世とあの世の境を越えても結ばれるべきもの、何者をも犯すことができない美・玉三郎の世界は、最後の物語の飛躍も”美しきめでたき世界として”存在する。 泉鏡花のこの戯曲は、ついに彼の生前中、上演されることはなかったが、玉三郎が描く「天守物語」の世界は、鏡花の描く世界を時には、超えて、天守の客人となった我々を魅了する。 原作者・鏡花が、この玉三郎の舞台を観ることが出来ないのは、つくづく残念という思いをいだかずには、いられない私がいる。 ちなみに、7年前には無かった笑いが客席から何度か漏れた。 特に笑っていたのは、ある程度の年齢を召した方々であったが、涼しい、りりしいという言葉は、おかしい? 「帰したくなくなった」は変? わたしの理解を超えた笑いであったのが何とも嘆かわしい限りである。 ちなみに「海神別荘」での、美女の心の急転直下には、わたしも苦笑が沸いたが・・「天守物語」での彼らの笑いは、苦笑なのであろうか?疑問が残る。 覚書>舞台の出演者は、いづれも、この作品世界に生きていたのが心地よい 特に、富姫付の侍女・薄を演じた吉弥が、天守から下り賊になった図書の様子を語る姿は、惚れ惚れと見事につきる。よい役者ぶりであることよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 12, 2006 02:09:55 AM
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