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海外旅行紀行・戯言日記

海外旅行紀行・戯言日記

ディヌ・リパッティ

コンスタンティン(ディヌ)リパッティは1950年に33才で白血病により亡くなった伝説的なピアニストです。

「神によって、ほんの束の間、貸し与えられた楽器」と評されたリパッティは1917年3月19日、裕福な音楽好きな両親の元にルーマニアの首都ブカレストで生まれました。
14才で初演デビューを果たし、16才で作曲家以外には異例となるジョルジュ・エネスコ賞を受賞することになりました。
その翌年にはウィーン国際ピアノコンクールで2位となりますが、その結果に審査員であったコルトーは抗議して、審査員を辞退する騒ぎに発展しました。コルトーはその才能を高く評価し、パリに招いて5年間共演者・アシスタントとして処遇することとなりました。
又指揮をシャルル・ミュンシュに、作曲をデュカス、及びナディア・ブーランジュに学びました。1937年ブーランジュ女史との初レコード録音をした後、第二次世界大戦が勃発したのでルーマニアに戻ったのです。しかし、1943年ナチスドイツの迫害を逃れるべく、ルーマニアからスカンディナビア経由スイスに亡命し、1944~1949年の間ジュネーブ音楽院で教鞭と取ることになりました。虚弱体質なので遠隔地への演奏旅行は出来ませんでしたが、フランス、英国、ベルギー、オランダ、イタリーへの演奏旅行を行い優れた演奏家と認識される様になりました。その間彼の評価は確立され、英コロンビアレコードとの独占録音契約が成立したのです。
しかし、生来虚弱体質であったこともあり、戦時中の逃避行で健康を害し、既に不治の難病が悪化の兆しを見せていました。1949年に健康が急激に悪化し、米国で開発された新薬「コルチソン」で一旦は回復も見られ、演奏活動も再開したのですが、再び悪化し1950年12月2日に永眠致しました。

未だステレオ録音の無い時代でしたが、類い希なる作品解釈・周到な準備による演奏はモノーラルの名盤の誉れ高く残されています。
シューマン  ピアノ協奏曲
グリーク   ピアノ協奏曲
モーツアルト 第21番ピアノ協奏曲(K. 467 カラヤンとの共演)
モーツアルト 第8番ピアノソナタ(K. 310) 
ショパン   ワルツ14曲
ショパン   マズルカ

映画「短くも美しく燃え」の主題曲、K.467の第2楽章は上記から選定されたのことですが・・、未確認です。


Lipatti


バッハのパルティータ第一番(BWV 825)は彼の最後のスタジオ録音で、1950年7月9日スイスのジュネーブのスタジオで行われたものです。Gouldの演奏に較べて、きらびやかさはありませんが、詩情に溢れていると思うのです。



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