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おじ、おばの距離


 二年前の社会学者の宮台真司との対談を思い出した。宮台は何度も矢沢のまねをしながら熱く矢沢のことを語った。
「もしも僕に矢沢永吉みたいなオジサンがいたら僕の人生変わってたと思うんですよ。どう変わってたかまったくわかりませんが、もっと…いい…人生だったかなぁ(爆)って気がするんですね、というか、「ホントにそうか?」っていってくれるおっさんが周りにいてくれてたらなぁって思いましたねぇ」
「ちょっとずれた視点」から話を聞く、この人はなんでこんなふうなことをいっているのだろうと「目的」を考えるのが矢沢のコミュニケーションのスタンスである。テレビやCMでしょぼいおっさんを演じているけれども、彼がしゃべりはじめると何か違うのはこんなところにある、と宮台はいう。
 対談では、矢沢について話ながら、金がほしい、成りあがりたいというエゴイスティックな動機について考えてみた。
 矢沢永吉はロックンローラーになり億万長者になった。ところが腹心に裏切られて三十億の借金を作った。それがきっかけにして考えが変わった。何もかも失ったけれど愛する人も信頼できる人も、気持ちいいと思える瞬間もまったく変わらないで享受できることに気づいた。お金がすべて、といいきっていた時と矢沢の考えは変わったように見える。しかし、と宮台はいった。たしかに矢沢はアクティブでいろいろなことを実現してきた人でアクティブであれと扇動しているけれども、「なんとか」といって「であるがしかし」というふうに必ずいうのが彼の話し方の特徴だ、と。何かをいった後で、でも本当にそうか、と引く。自分でいったことの隠された目的を考えるわけである。こんなふうに一歩引いてみると違って見えてくる。しかし、何が本当に大事なのか、自分が勝手に大事だと思い込んでるだけではないのか、あるいは、それはそれかもしれない、しかし条件が変わると人は別のことを思うのではないか、と引くかどうかは人によって違う。宮台は「生き方」だといったがたしかにそのとおりだと思う。
 自分がそのようにいわば立ち止まってふりかえっているかどうか考えてみた。いつもそうしてきたことに気がつく。考えすぎて身動きがとれなくなった時もあったのだが。
 自分の行動の目的はまず自分について知ろうとするのでなくてはならない。たしかに自分について知ることはむずかしい。アドラーも自分について知ることはなんとむずかしいことか、といっている。
 まわりに行動の隠された目的を教えてくれる人がいるのはありがたい。宮台はそういう人のことを「おっさん」といっていたがこれもわかる。アドラー心理学のことをおじ、おばの心理学という言い方をすることがあるが、親だと同じことをいわれても利害関係がありすぎてうまくいかないことが多い。正論を親がいうとよけいに反発するということがある。おじやおばだと他人ではないから無関心ではないが直接の利害関係がないから適度な距離をおいて話すことができるわけである。
 もちろん、このようなことを親ができないわけではない。子どもの勉強のことや子どもが学校に行かないこと)は本来子どもが自分で解決しないといけないという意味で子どもの課題であり、親といえども介入することはむずかしいのだが、もしも関係がよくなれば(つまりはおじ、おばくらいの距離をとれるようになればということだが)親子で話をすることは可能である。なんといっても生まれた時からずっと知っているわけだからカウンセリングで時々会うカウンセラーよりもはるかに親の方が子どものことを知っている。「このままだとどうなると思う?」という言い方は関係がよくないと皮肉や威嚇、挑戦に聞こえることがある。「このままだとどうなると思う?」「本当にそれでいいのか?」「どうしたいのか?」こんな言い方(いずれも子どもの課題である)が素直に受け止められるような関係を作ることが親子関係の目標であるということができる。そのような目標が達成できるために今何ができるかを考えた時、残念ながら今は静観するしかないことが多いのだが。
 母の弟にあたるおじがいたのだが僕に影響を与えるにはあまりに大人すぎた。若くして事故で亡くなったことを残念に思っている。


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