阿倍仲麻呂は698年に大和国に生まれ、筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫、中務大輔・阿倍船守の長男でした。
若くして学才を謳われ、717年多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して、唐の都・長安に留学しました。
”遣唐使 阿倍仲麻呂の夢”(2015年9月 角川学芸出版刊 上野 誠著)を読みました。
科挙を突破し希有の昇進を遂げ唐の重臣閣僚となった阿倍仲麻呂の、苦難の生涯をつらぬく夢を日唐交流史をふまえて描きだしています。
同次の留学生には、吉備真備や玄昉がいました。
唐名を朝衡または晁衡といい、唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登りましたが、日本への帰国を果たせずに唐で客死しました。
上野 誠さんは1960年福岡県生まれ、国学院大学大学院文学研究科博士課程後期単位修得満期退学、奈良大学文学部教授(国文学科)、博士(文学)です。
万葉挽歌の史的研究と万葉文化論により、第12回日本民俗学会研究奨励賞、第15回上代文学会賞、第7回角川財団学芸賞を受賞しています。
当時、唐の国力に及ぶ国はほかになく、都・長安は人口100万人の大都会でした。
日本の平城京はわずか10万人でした。
唐こそ世界を支配することのできる唯一の帝国でした。
8世紀の東アジア世界においては、唐の文明を受け入れることで各国の国作りが進められていました。
日本はそのうちにあって、世界帝国・唐の文明の果つるところ、辺境の一小国に過ぎませんでした。
ほぼ20年に一度派遣される遣唐使は、国家の存亡に関わる重い任務を負って、唐に旅立っていったのです。
阿倍仲麻呂も、遣唐留学生の一人として唐に渡った人物です。
なお、姓は史料ごとに異なり、”阿倍””阿部””安倍””アベ”の表記となっています。
本書では、”阿倍”に統一して記すことにしています。
唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えました。
太学は古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関で、官僚を養成する機関でした。
科挙は、中国で598年~1905年まで約1300年間にわたって行われた官僚登用試験です。
玄宗は唐の第9代皇帝で、治世の前半は太宗の貞観の治を手本とし、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えました。
しかし、後半は、楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作ったと言われています。
仲麻呂は725年に洛陽の司経局校書として任官、728年に左拾遺、731年左補闕と官職を重ねました。
仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していました。
733年に多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐しましたが、さらに唐での官途を追求するため帰国しませんでした。
翌年帰国の途に就いた遣唐使一行は、かろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破しました。
この時帰国した真備と玄昉は、第1船に乗っていたものの助かっています。
副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻りました。
名代一行を何とか帰国させると、今度は崑崙国に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきました。
広成らは仲麻呂の奔走で、渤海経由で日本に帰国することができました。
734年に儀王友に昇進し、752年に衛尉少卿に昇進しました。
この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐しました。
すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図りました。
この時王維が秘書晁監の日本国へ還るを送るの別離の詩を詠んでいます。
しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流されました。
このとき李白は仲麻呂が落命したという誤報を伝え聞き、明月不歸沈碧海の七言絶句、哭晁卿衡を詠んで仲麻呂を悼みました。
しかし、仲麻呂は死んでおらず、船は唐の領内である安南の驩州に漂着し、755年に仲麻呂一行は長安に帰着しました。
この年、安禄山の乱が起こったことから、日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来しましたが、唐朝は行路が危険である事を由に清河らの帰国を認めませんでした。
仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、760年に左散騎常侍から鎮南都護・安南節度使として再びベトナムに赴き総督を務めました。
761年から767年まで、6年間もハノイの安南都護府に在任し、766年に安南節度使を授けられました。
最後は?州大都督を贈られ、770年1月に73歳の生涯を閉じました。
歌人として”古今和歌集””玉葉和歌集””続拾遺和歌集”に、それぞれ1首ずつ入首したとされます。
”続拾遺和歌集”の1首は、万葉集の阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したものと言われています。
百人一首に、”天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも”が選ばれています。
753年に帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説です。
ただし、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え福岡県春日市の御笠山から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在します。
第1章 新生「大宝律令」の子/第2章 日本から唐へ/第3章 科挙への挑戦/第4章 官人として宮廷社会を生きる/第5章 知恵が救った四人の命/第6章 阿倍仲麻呂帰国/第7章 阿倍仲麻呂と王維/第8章 天の原ふりさけ見れば