ハワイの日本人移民は、1868年以降、労働者として日本からハワイへ移住していった人びとです。
1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民と言い、以降1908年までの移民を自由移民と言います。
R.W.アーウィンは、1885年2月8日の東京市号のホノルル入港で第1回官約移民を実現し、東京・青山に住んで最後は日本の土になりました。
”ハワイ官約移民の父 R.W.アーウィン”(2011年7月 講談社ビジネスパートナーズ社刊 松永 秀夫著)を読みました。
官約移民の父と言われるアメリカ人、ロバートー・ウォーカー・アーウインの生涯を紹介しています。
松永秀夫さんは1926年生れ、法政大学卒、三友新聞社に勤務し、編集局長を務めました。
現在、日本海事史学会、太平洋学会、日本移民学会の会員とのことです。
ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めました。
中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島しましたが、日本からやってきた移民が最も多かったのです。
1860年に日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託しました。
日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいました。
カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示しました。
ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受けました。
その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化しました。
しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年にサイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなりました。
こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれました。
日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範、三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行いました。
折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けました。
この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年日布修好通商条約が締結されました。
1885年に日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになりました。
政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡りました。
1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり、946名が東京市号に乗り込んでハワイに渡りました。
官約移民制度における具体的な交渉は、後に移民帝王とも言われる在日ハワイ総領事R.W.アーウィンに一任されました。
アーウィンは井上馨と親交を持ち、その関係から三井物産会社を用いて日本各地から労働者を集めました。
そして、その仲介料を日本・ハワイの双方から徴収するなど、莫大な稼ぎを得ていました。
アーウィンとの仲介料の折り合いが合わず、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止されました。
1894年の官約移民の廃止と同時期に、弁護士の星亨が日本政府に働きかけ、民間移民会社が認可されることとなりました。
以後は、日本の民間会社を通した斡旋=私約移民が行われるようになりました。
その後、1900年に移民会社による民約移民が廃止になり、ハワイへの移民は、自由移民だけとなりました。
自由移民は、官約移民・民約移民の時代を通じて、もう一つの移民の方法として法的には並存していました。
またこの他に、密入国などの不法な手段による渡航もありました。
日本からの移民は、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡りました。
移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げてきました。
アーウィンは1844年にデンマーク・コペンハーゲンで生まれ、1866年23歳のときにパシフイック・メイル・スチームシップ日本駐在員として横浜に赴任しました。
パシフイック・メイルは1847年に設立され、サンフランシスコ・パナマ間の航路を引受けた船会社です。
1848年のカリフォルニア州のゴールドラッシュに出会い、乗船客の急増に伴って利益をあげ、基盤を築きました。
南北戦争後、1865年にアメリカ政府から年間50万ドルの郵便輸送契約を結び、サンフランシスコ・ハワイ・日本・上海・香港の定期航路に乗り出しました。
アーウィンは1869年に横浜のウォルシュ・ホール商会に入社し、長崎のウォルシュ商会に勤務しました。
このとき、後に正式に結婚する18歳の武智いきを同行しました。
1873年にフィッシャー商会の設立に参加しました。
1874にハワイ王国代理領事に就任しました。
1876年に三井物産が発足しましたが、アーウィンは1877年にロンドン代理店主になりました。
1878年にロンドンを離れ横浜に戻り、1879年に三井物産顧問役に就任しました。
1880年に三井物産に蒸気船会社設立を勧告し、在横浜ハワイ総領事代理に再任されました。
1881年に横浜でカラカウア王を出迎え、ハワイ国総領事に就任しハワイ国代理公使兼任を受命しました。
1882年に武智いきと正式に結婚しました。
これが日米間初の正式な国際結婚と言われています。
この年、共同運輸会社の発起人会で取締役待遇になり、井上外務卿により、布哇国移住民事務局日本代理者と承認されました。
1884年にハワイからイアウケア全権公使が来日し、井上外務卿から移民提議を承認されました。
アーウィンは、ハワイ国政府代理官・移住民事務局特派委員を兼任しました。
こうして、1885年の第1回官約移民を実現したのです。
1925年に82歳で永眠し、勲一等旭日大綬章に叙せられました。
第1章 横浜のPM社に入社/第2章 日本人少女と巡り会う/第3章 長崎から帰り外債仲裁/第4章 三十一歳でハワイ王国代理領事/第5章 「先収会社」に加勢/第6章 新設商会で存分な行動/第7章 ハワイ国王の来遊に大役/第8章 国賓の礼遇で応対/第9章 ハワイ国歌で出迎え/第10章 フランクリン由来で紹介/第11章 私邸にカラカウア王/第12章 日本の優遇を謝す/第13章 新たに海運会社設立/第14章 ハワイ少年二人が留学/第15章 イギリスで汽船建造/第16章 特命公使の移民を諾す/第17章 「布哇に往けよ」の論評/第18章 約定書草案も掲載/第19章 府県で違った対応/第20章 天然痘で渡航延びる /第21章 ハワイ島民から厚遇/第22章 罷業があっても第二回船/第23章 渡航条約と二社合併/第24章 横浜-ホノルル直行船/第25章 好感呼んだ禁酒と教化/第26章 無賃渡航費を有料に/第27章 グアテマラで「虐待事件」/第28章 官約移民の役割を終えて/第29章 十年間・官約の意味/第30章 ハワイ国をしばしば去来/年表/引用・参考書