折口信夫は1887年生まれの国文学者、国語学者で、国学院大学・慶応大学教授を務めましたが、同時に、釈迢空と号した詩人・歌人でもありました。
日本文学・古典芸能を民俗学の観点から研究し、歌人としても独自の境地をひらきました。
成し遂げた研究は折口学と総称され、柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築きました。
”折口信夫 神性を拡張する復活の喜び”(2019年1月 ミネルヴァ書房刊 斎藤 英喜著)を読みました。
歌人としてまた万葉学者として知られ、釈迢空の筆名で活躍した折口信夫の神道学者としての姿を軸に学問と生涯を紹介しています。
斎藤英喜さんは1955年東京都生まれ、日本大学芸術学部卒業、法政大学文学部日本文学科卒業、成城大学大学院文学研究科修士課程修了、1990年に日本大学大学院文学研究科博士課程満期退学しました。
その後、宗教学者・日本文学者・神話学者として、日本大学文理学部講師、椙山女学園大学短期大学部助教授を経て、2000年に佛教大学文学部歴史文化学科助教授、2004年に同教授となり現在に至ります。
折口信夫は1887年2月11日大阪府西成郡木津村生まれ、1890年木津幼稚園、1892年木津尋常小学校、1896年育英高等小学校、1899年大阪府第五中学校にそれぞれ入学しました。
1901年に15歳になったとき、父親から”万葉集略解”を買ってもらい、雑誌に投稿した短歌が入選しました。
1902年に成績が下がり暮れに自殺未遂を起こしました。
1903年にも自殺未遂を起こしました。
1904年の卒業試験で4科目が落第点となり、原級にとどまりました。
この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかったといいます。
1905年に天王寺中学校を卒業し、医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学しました。
藤無染と同居し、この頃に約500首の短歌を詠みました。
1907年に予科を修了し、本科国文科に進みました。
國學院大學において、国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受けました。
また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りしました。
1910年に國學院大學国文科を卒業し、1911年に大阪府立今宮中学校の嘱託教員、国漢担当となりました。
1912年に伊勢、熊野の旅に出ました。
1913年に”三郷巷談”を柳田國男主催の”郷土研究”に発表し、以後、柳田の知遇を得ました。
1914年に今宮中学校を退職し、上京しました。
折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したといいます。
1916年に國學院大學内に郷土研究会を創設し、”万葉集”全20巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行しました。
1917年に私立郁文館中学校教員となり、”アララギ”同人となって選歌欄を担当しました。
一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動しました。
1919年國學院大學臨時代理講師となり、万葉辞典を刊行しました。
1921年に柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行を行いました。
1922年に雑誌”白鳥”を創刊し、國學院大學教授となりました。
1923年に慶應義塾大学文学部講師となり、2回目の沖縄旅行を行いました。
1924年に”アララギ”を去って、北原白秋らと歌誌”日光”を創刊しました。
1925年に処女歌集”海やまのあひだ”を刊行しました。
1927年に國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪れました。
1928年に慶應義塾大学文学部教授となり、芸能史を開講しました。
1932年に文学博士の称号を受け、日本民俗協会の設立にかかわり幹事となりました。
1935年に3回目の沖縄旅行を行いました。
1940年に國學院大學学部講座に民俗学を新設しました。
1941年に太平洋戦争が起こり、藤井春洋が応召しました。
1944年に藤井春洋が硫黄島に着任しました。
春洋を養嗣子として入籍しましたが、大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕が発表されました。
8月15日に敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もりました。
1948年に日本芸術院賞を受賞し、第一回日本学術会議会員に選出されました。
著者は、古代文学研究の道に進み、古代文学研究の最先端において、折口学から多くの影響を受けながらも、折口信夫はすでに乗り越えられていくべき対象となっていたといいます。
しかし、古代文学研究の先行研究者としての折口信夫とは違うところから、再び折口信夫に出会い直しすることになりました。
きっかけは2006年に刊行した新書の中で、折口の古代研究もまた、近代における読み替えられた日本神話の一つとして読める可能性に気が付いたからとのことです。
折口信夫を読み始めた最初の頃に、神道関係の論文が第20巻”神道宗教篇”の1巻分しかなかったのが不思議だったそうです。
1巻だけにまとめたのは、折口はあくまでも国文学者、民俗学者なのであって、神道の専門的な学者ではないという認識に基づくのだろうと、なんとなく考えていました。
しかし、著作を読んだらすぐに気が付くように、いくつかの論文を読み込んでいくと、それらは神道と無関係な論文ではありませんでした。
折口にとって文学や芸能の歴史的な研究は、どれも神道史の研究と不可分にあったのです。
改めて折口信夫について論じたものや折口学を研究した著作を見渡してみると、神道史の研究者としての折口にポイントを絞ったものがないことに気付いたといいます。
馬渡憲三郎・石内徹・有山犬五編”迢空・折目信夫事典”には、折口信夫と深い関わりを待った神道関係の人物は、一人も登場していません。
一方、神道関係の人物を研究する近代神道史研究のプロパーの論考を見ると、折口信夫との関係を本格的に論じているものはほとんど見当たりません。
神道学者としての折口については、あたかもブラックボックスのようになっているのではないでしょうか。
改めて、古本隆明を始発点に、古代文学研究を経置づけ、そうした視点から折目を読み直し、これまで見えなかった折口信夫の可能性、面白さが浮かんでくるという感触を持つたといいます。
序 章 「神道学者」としての折口信夫/第一章 「折口信夫」の誕生まで/第二章 「よりしろ」論と大正期の神道、神社界-「髯籠の話」「異訳国学ひとり案内」「現行諸神道の史的価値」-/断章1 弟子たちとの生活/第三章 神授の呪言・まれびと・ほかひびと-「国文学の発生」-/第四章 沖縄へ、奥三河へ-「琉球の宗教」「古代生活の研究」「山の霜月舞」-/第五章 「神道史の研究にも合致する事になつた」-「神道に現れた民族論理」-/断章2 二つの大学の教師として/第六章 昭和三年、大嘗祭の現場から-「大嘗祭の本義」-/第七章 折口信夫の「アジア・太平洋戦争」-「国学とは何か」「平田国学の伝統」「招魂の御儀を拝して-/第八章 神々の「敗北」を超えて-「神道の友人へ」「民族教より人類教へ」「道徳の発生」-/断章3 食道楽/終 章 「もっとも苦しき たたかひに……」/参考・引用文献・資料/折口信夫年譜/折口信夫引用著作索引