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2019.12.21
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 伊勢宗瑞は俗称を北条早雲といい、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名です。

 北条氏の始祖として知られていますが、その出自など多くがなぞにつつまれていました。

 一介の素浪人が妹または姉の嫁ぎ先の今川家を頼って駿河に下向し、そこで出世してさらには関東に進出するという、立身出世物語として描かれることが多かったです。

 ”戦国大名・伊勢宗瑞”(2019年8月 KADOKAWA刊 黒田 基樹著)を読みました。

 北条早雲の名で知られる北条氏の初代・伊勢宗瑞について、近年の新史料の発見による人物像を紹介し、新しい政治権力となった戦国大名の構築過程を明らかにしています。

 黒田基樹さんは1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修を卒業しました。

 1995年に駒澤大学大学院博士課程(日本史学)単位取得満期退学、1999年に駒澤大博士 (日本史学)号を取得しました。

 2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授となり現在に至っています。

 歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めています。

 あたかも今年は、宗瑞が死去してから500年という記念すべき年にあたっています。

 北条家の本拠であった神奈川県小田原市では、「北条早雲公顕彰五百年」として、宗瑞の事績を偲ぶ様々なイベントが企画されています。

 本書は、伊勢早雲庵宗瑞についての、最新の研究成果をもとにした、初めての本格的な評伝書としようとしています。

 伊勢宗瑞は江戸時代からつい近年まで、北条早雲の名で知られてきました。

 そこでは、戦国大名の魁、下剋上の典型、大器晩成の典型などと評価されてきました。

 しかしながらここ30年における研究は、そうした人物像を大きく書き換えてきています。

 宗瑞に関する新たな史料が見いだされ、またその解釈についても深化がすすめられてきました。

 何よりも、宗瑞をとりまく、京都や東海、そして関東に関する政治状況についての解明が大きく進展し、それによって宗瑞の置かれていた状況や、行動の意味についての理解も著しく進展をみるものとなっています。

 北条早雲こと伊勢 宗瑞は、室町時代中後期、戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代です。

 早雲の代の時はまだ伊勢姓であり、戦国大名の嚆矢として活動しました。

 諱は長らく長氏=ながうじまたは氏茂=うじしげ、氏盛=うじもりなどと伝えられてきましたが、現在では盛時=もりときが定説となっています。

 通称は新九郎、号は早雲庵宗瑞、生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきましたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が定説となりつつあります。

 伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはありません。

 一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきました。

 しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流です。

 伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘、現井原市で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主であったことがほぼ確定しました。

 近年の研究で、早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになっています。

 早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に、盛定の所領の備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられています。

 身分の低い素浪人ではなく、井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられています。

 応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わりました。

 義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めています。

 その縁で早雲の姉または妹の北川殿が義忠と結婚したと考えられています。

 北川殿は側室であろうとされていましたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られています。

 文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸、後の今川氏親を生みました。

 文明8年(1476年)に、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にしました。

 残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満を擁立して、家中が二分される家督争いとなりました。

 これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させました。

 範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の合力と記されています。

 北川殿の弟または兄である早雲は駿河へ下り、双方を騙して調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させました。

 上杉政憲と太田道灌も撤兵させ、両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓いました。

 家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者、長谷川政宣の小川城に身を寄せました。

 今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっていまし。

 文明11年(1479年)に、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出しています。

 ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしませんでした。

 長享元年(1487年)に、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城に入って同志を集めました。

 同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺しました。

 龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となりました。

 早雲は伊豆との国境に近い興国寺城に所領を与えられて駿河へ留まり、今川氏の家臣となりました、

 早雲は甥である氏親を補佐し、駿河守護代の地位にあったとも考えられています。

 この頃、早雲は幕府奉公衆小笠原政清の娘、南陽院殿と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれました。

 早雲が、11代将軍足利義澄の異母兄の堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされています。

 本書では、伊勢宗瑞の生涯について、当時の史料を中心にしながら、できるだけ詳しく取り上げています。

 宗瑞に関する史料は、その後の北条家歴代と比べれば、著しく少ない状況にあります。

 あわせて、新史料が確認されることも、極めて稀な状況にあります。

 しかしながら、宗瑞に関する史料がすべて、十分に検討されたものとなっているかといえば、そうとはいえない状況にありました。

 あらためて丹念に史料を検討してみると、これまで十分に解釈されていなかった事柄や、見過ごされてきた事柄が、いくつも存在していたといいます。

 現在の宗瑞像において大きな前提となっている事柄に、室町幕府の有力官僚の出身であったという出自の問題と、かつての通説よりも二回りも若かったという年齢の問題があります。

 前者は戦後における宗瑞研究の蓄積による成果ですし、後者は著者が20年ほど前に提示したものです。

 そこから、宗瑞像は大きく転回するものとなったといって過言ではありません。

 その後においても、宗瑞に関する研究はわずかずつではあるものの、堅実に進展をみるものとなっていました。

 この機会に、それらを集大成し、最新の宗瑞像をまとめておこう、というのが本書のねらいとなっています。

第一章 伊勢宗瑞の登場/第二章 伊豆経略の展開/第三章 伊豆国主になる/第四章 相模への進出/第五章 両上杉家への敵対へ/第六章 相模の領国化/第七章 政治改革の推進





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Last updated  2019.12.21 07:50:01
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