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祇園の名はインドにあった祇樹給孤独園=ぎじゅぎっこどくえんと呼ばれた僧園の名前を略したものです。 ”祇園、うっとこの話 「みの家」女将、ひとり語り”(2018年10月 平凡社刊 谷口 桂子著)を読みました。 祇園のお茶屋「みの家」の女将の一日、「みの家」の歴史、祇園の今昔、しきたり、母である先代のことなど祇園の四季や京都の四季を語っています。 祇樹給孤独園は、古代、中インドの舎衛国=しやえこくにあった、祇陀=ぎだ太子の庭園の祇陀林=ぎだりんを、須達=しゆだつ長者が買って、寺院=祇園精舎を建てて釈迦に寄進したものです。 今の八坂神社は、元の祭神であった牛頭天王=ごずてんのうが祇園精舎の守護神であるとされ、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれましたが、1868年の神仏分離令により改名されました。 牛頭天王は平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきました。 御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになりました。 これが京都の祇園祭の起源であるとされます。 八坂神社は西門前、四条通を中軸とした鴨川以東一帯の地をいいますが、その称は一定していません。 清水寺・祇園社への参詣路にあたるという立地によって、早くから辺りに茶屋が存在していました。 谷口桂子さんは1961年三重県四日市市生まれ、東京外国語大学外国語学部イタリア語学科を卒業しました。 小説、エッセイ、人物ルポ、俳句を雑誌などに発表しており、人物ルポは元首相、ノーベル賞受賞者から、山谷の日雇い労働者まで幅広くインタビューを手がけてきました。 24歳で鈴木真砂女に出会って作句を始め、のちに加藤楸邨「寒雷」へ所属しましたが、現在は無所属です。 八坂神社は明治以前は鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称します。 鳥居前町は元々は四条通に面していましたが、明治以降に鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展しました。 舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがあります。 現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らぎましたが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれます。 北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいます。 お茶屋とは今日では、京都などにおいて花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のことで、東京のかつての待合に相当する業態です。 芸妓を呼ぶ店で風俗営業に該当し、営業できるのは祇園、先斗町など一定の区域に限られます。 料亭(料理屋)との違いは、厨房がなく店で調理した料理を提供せず、仕出し屋などから取り寄せることです。 かつては、宴のあと、客と芸妓、仲居が雑魚寝をするというのが一つの風情ある花街情緒でしたが、今日では見られません。 歴史的には、花街の茶屋は人気の遊女の予約管理など、遊興の案内所や関係業者の手配所としての機能があり、客は茶屋の座敷で遊興し、茶屋に料金を払いました。 料理代や酒代をはじめ、芸者や娼妓の抱え主など各方面への支払いは、茶屋から間接的に行われました。 客が遊興費を踏み倒した場合でも、茶屋は翌日に関係先に支払いをしなくてはならず、客からの回収は自己責任でした。 茶屋が指名された遊女を呼ぶ場合は、抱え主に対し「差し紙」という客の身元保証書を差し出す規則がありました。 客の素性や支払を保証する責任上、茶屋は原則一見さんお断りで、なじみ客の紹介がなければ客になれませんでした。 今でも京都ではこのルールが残っていて、料亭に芸妓を招く場合でも、いったんお茶屋を通すことになっています。 料理代は料亭に支払い、花代は後日お茶屋に支払うことになります。 「みの家」は京都市東山区八坂新地末吉町にあり、最寄駅は祇園四条駅です。 先代の女将、千万子は、瀬戸内寂聴が瀬戸内晴美の筆名時代の1972年に、祇園に取材して著した小説『京まんだら』のモデルとして知られています。 この小説は、「みの家」の女将で吉村千万子という、京都生まれでも無いのに祇園に店を立ち上げた実在の人物です。 小説中、「竹乃家」として書かれるお茶屋は「みの家」、千万子は「芙佐」、その子の薫は「稚子」として登しています。 京都祇園に生きる女性達の表と裏の素顔,その恋愛や生き方を描いた興味深い話で、京都の歴史や風物も織り交ぜられて華やかな作品になっています。 「みの家」には美空ひばり、イサムーノグチら、著名な客が多くいましたが、作家の瀬戸内寂聴もその一人です。 寂聴は祇王寺の智照尼のことを『女徳』に書き、智照尼の紹介で祇園に詳しい中島六兵衛を知り、「みの家」を訪れるようになったそうです。 何百年と続く老舗のお茶屋が、代々一族に受け継がれて栄える中で、当代の「みの家」女将の吉村薫の母親で、先代の女将の吉村千万子は、十代で祇園のお茶屋に奉公し、23歳で自分の店を持ちました。 ほかに、旅館「吉むら」などお茶屋以外の事業も成功させて、女実業家といわれた伝説の人物です。 千万子の母親は離婚して女の子を連れて故郷の山口に帰り、帰ってからおなかに子供がいることに気づいたといいます。 その子供が千万子であり、1919年に山口県で生まれましたが、訳あって母親は子供二人を連れて大阪に出て、駅前でくらわんか餅を売って生計を立てたそうです。 千万子は子供ながら母親の仕事をよく手伝って、その姿を見ていた京阪電鉄の人の紹介で、尋常高等小学校を出てすぐ、祇園のお茶屋「みの家」に養女に来ました。 しかし養母は病気がちで、千万子が16歳のときに亡くなってしまい、実家の母親はすでに亡くなっていたため、18歳年上の姉夫婦の家に厄介になっていました。 その後、仲居の修業を希望して、紹介してもらって「よし松」というお茶屋にやってきました。 その店で甘粕大尉に出会い、甘粕には贔屓にしてもらったといいます。 にもかかわらず、千万子は店の上等でない客の呉服屋の番頭と恋仲になり、大八車で夜逃げ同然に飛び出しました。 そして、途絶えた「みの家」を1942年に二人で再興し、子供も二人できましたが、その後、店に客できていた薫の父親と出会って、慰謝料をつけて追い出したそうです。 千万子は一時、旅館「吉むら」の他に、鉄板焼きの店「楼蘭亭」、スナック「チマ子」と手広く店を経営しました。 愛嬌のある可愛いい人で、頭もよく、愚痴は言わず、笑い上戸で泣き上戸の、情の濃い、情け深い人だったといいます。 そして、奔放な恋愛を繰り返す一方で、千万子は義理を欠かさない人でした。 「みの家」の先代の墓参りを忘れたことはなく、月命日に京都にいないときは、従業員を代理で行かせました。 薫は贅沢三昧に育ち、「あば」と呼ばれる乳母がつき、千万子は自分ができなかったことを子供たちにさせようと、薫は琴、兄はバイオリン、姉はピアノの習い事をさせました。 薫には中学生のときから家庭教師がつき、アメリカのハイスクールを出た先生に英会話の個人レッスンを受けました。 新し物好きの千万子はテレビもいち早く購入しました。 夕食後は近所の人が見に集まるため、座布団を並べるのは薫の役目でした。 お茶屋の娘は「家娘」とよばれ、よそから来た「奉公」と区別されます。 京都には祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒の五花街がありますが、「みの家」がある祇園町の家娘は舞妓に出しません。 薫は公立高校の試験に落ちて、私立の二次試験を受けて女子高に入学しましたが、その後、再入試を受けて公立に入り直しました。 その公立高校を落第しそうになり、かつて英会話を習っていた先生のいるアメリカに1969年に渡りました。 半年後に帰国してから男の人に出会い、その相手と駆け落ちして結婚しました。 親同士が話し合い、千万子が以前経営していたスナック「チマ子」を、薫が祇園で新たに始めました。 薫が「みの家」の若女将となるのはそれから21年後に、千万子が亡くなってからです。 21歳で結婚して、別れたのは27歳のときでした。 著者は四半世紀ほど前、編集者に連れられて「みの家」を訪れて、女将の薫と出会ったそうです。 薫はたおやかな京言葉を操り、繕わないかわいらしさの一方で、筋の通らないことには京おんなの芯の強さと誇りで対処していました。 出会いと縁に感謝しつつ、客層もお茶屋も変わっていく時代に、この先も「みの家」が末永く栄えていくことを心より願っているといいます。 第一章 女将の一日/第二章 『みの家』の歴史/第三章 お座敷という表舞台/第四章 おかあちゃんのこと/第五章 祇園の四季/京都の四季/第六章 『みの家』のご縁/第七章 祇園今昔/第八章 お茶屋の暮らし/第九章 身近な神仏/第十章 『みの家』のこれから お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.10.17 08:56:17
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