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2022.01.08
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 立石寺=りっしゃくじは、山形県山形市山寺にあり、広く「山寺」の通称で知られています。

 ”山寺立石寺 霊場の歴史と信仰”(2121年9月 吉川弘文館刊 山口 博之著)を読みました。

 慈覚大師円仁の開創と伝わり、霊魂の帰る山とか幽冥を分ける聖地として知られる、立石寺における信仰の形と背景を、霊場を切り口に解明を試みています。

 立石寺は慈覚大師円仁が開いたという天台宗の寺院です。

 全山が凝灰岩からなる宝珠山の懸崖に多くの堂宇が配置され、東北の叡山ともいわれました。

 鎌倉時代には幕府から禅宗に改めさせられましたが、衆徒が従わず、旧に復しました。

 その後、兵火で焼失し、1356年に山形に入った斯波兼頼が、本堂の根本中堂を再建しました。

 16世紀にも焼き討ちにあいましたが、室町時代中期建造の根本中堂は、入り母屋造り、5間4面、ブナ材の建築物として、日本最古といわれる天台宗の仏教道場です。

 山門、仁王門、納経堂、開山堂、五大堂、如法堂など、山内の建物を結ぶ参道の石段は1000段を超えます。

 山口博之さんは1956年山形県生まれ、1980年山形大学教育学部卒業、2006年東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)です。

 山形県立博物館学芸専門員を経て、現在、東北学院大学東北文化研究所客員です。

 立石寺は、山形県山形市にある天台宗の仏教寺院。山寺の通称で知られ、古くは”りゅうしゃくじ”と称しました。

 詳しくは、宝珠山阿所川院立石寺と称します。

 本尊は薬師如来で、古来、悪縁切り寺として信仰を集めています。

 蔵王国定公園に指定されていて、円仁が開山した中尊寺・毛越寺、瑞巌寺との四寺を巡る四寺廻廊を構成しています。

 ほかに、若松寺と慈恩寺を含めて巡る出羽名刹三寺まいりを構成しています。

 山形市と仙台市は東西に隣接する都市で、その間に奥羽山脈という地理的障壁があり、この山中に立石寺はあります。

 二つの都市をJR仙山線がうねうねと結び、最寄は山寺駅です。

 ホームの北側に岩が屏風のように広がり、断崖絶壁、奇岩怪石の上に、堂宇がちょっと心配になるようなバランスで点在しています。

 宝珠山立石寺は、慈覚大師円仁が清和天皇の勅許を得て開いたという名高い霊場寺院です。

 860年慈覚大師創建の古刹であり、一相坊円海が再興したとされます。

 創建が平安時代初期に遡ることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かですが、創建の正確な時期や事情については諸説があります。

 立石寺文書のうち”立石寺記録”は、開山を円仁、開祖を安慧と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされています。

 安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子です。

 安慧は844年から849年まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割を果たしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もあります。

 また、円仁が実際に東国巡錫したのは829年から832年のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もあります。

 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えました。

 本尊薬師如来坐像は1205年に修理されており、この時に本堂の修造が完了して十二神将像を造立しました。

 後に兵火により伽藍を焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となりました。

 1356年に、源氏の斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻りました。

 1521年に寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失しました。

 1520年に頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦いましたが、この際、立石寺が伊達側に加勢したために頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けました。

 焼き討ちの際には、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消失しました。

 1543年に最上義守による再建に際して再度分燈を受けましたが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺から逆に分燈されました。

 延暦寺不滅の法灯は、織田信長の焼き討ちののち立石寺から継ぎ、東北の比叡山として有名です。

 山形城主であった最上家と関係が深く、同家の庇護を受けていました。

 最上義守の母・春還芳公尼は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫にあたる最上義光も立石寺を保護しました。

 凝灰岩の岩盤に建つ釈迦堂・開山堂、慈覚大師入定窟と旧国宝如法経所碑、根本中堂などが建ち並ぶ、奥深く静かな景勝地であり、1932年に国名勝史跡指定を受けました。

 本書では、立石寺が中世霊場として盛んであった期間を1期~4期に分け、前後を含みつつ中世考古学の視点で霊場に歴史を読んでみたいといいます。

 一歩足を踏み入れると、ここでは不思議な静寂に包まれ、俳聖松尾芭蕉も感じたらしいです。

 芭蕉がここを訪れたのは1689年夏、奥の細道の旅の途中でした。

 今から300年以上前の旅人は、山形領に立石寺と云山寺ありとして、”閑さや岩にしみ人蝉の声”の名句を残しました。

 なぜ、芭蕉はこの地でセミの声が岩に染み込むような静けさを感じたのでしょうか。

 絶景にして物の音が聞こえず寂寞の中にある空間であり、芭蕉の感じた閑さは霊場への共感によって得られた境地ではないでしょうか。

 ここは真夏でも不思議な静寂に包まれます。

 そびえ立つ露岩に寄り添うように建ち並ぶ堂宇の数々、清和天皇宝塔、露岩に刻まれた一面の岩塔婆、風穴に納められた小五輪塔、そしてたくさんの後生車があります。

 これらは参詣する人に寄せられたものではなく、供養者によりここに寄り集う霊魂のために用意されたものなのです。

 ここは霊魂の帰る山と目されていた、あの世と此の世の境界、幽冥を分ける場所、霊場なのです。

 霊場は神仏の霊験あらたかな場所の意で、神社・仏閣などの宗教施設やゆかりの地など、神聖視される場所をいいます。

 古くから信仰の対象になっており、現在でもお遍路や修験者などの往来の多いところがあります。

 恐山、比叡山、高野山など数多くの霊場が存在し、その多くは山岳信仰に根ざしたものですが、全ての霊場が山にあるとは限りません。

 志度寺のように海沿いの霊場や、弁天洞窟のような地下霊場も存在します。

 この場所には信仰に基づく行為の結果、見ることのできる資料が残されました。

 信仰は無形ですが、霊場で信仰に使われた資料は有形であり調査が可能です。

 著者は立石寺に隣接する山形県天童市に生まれ、小学校六年生の遠足は学校を出発して立石寺の奥の院まで、往復16キロほどを歩いたといいます。

 子供の足では霊場はすごく遠く、信仰心を試すように道も悪く、担任教師がバイクで伴走していたのが羨ましかったそうです。

 これ以外にも登山好きの父親に連れられ、何度も奥山寺の登山コースを巡りました。

 また、立石寺へ歯骨を納めたという話、魂が立石寺へ飛んだのを見たという話を聞きながら成長してきたそうです。

 膝元に住んでいたわけではありませんが、皮膚実感として立石寺を感じていました。

 なぜ中世考古学研究の対象かといえば、霊場に残されるのは史料もありますが、資料が圧倒的に多く中世考察古学の対象となるからです。

 これは地域の中世史を再構築する試みでもあります。

 地域の中世史を描くことが難しいのは、歴史を語る史料がないからです。

 史料をもって歴史を語ることは困難な場合、考古学資料やその他の資料をすべて活用しながら解明を進めるしかありません。

 モノ資料を総合化しつつ、個別の資料の関連性を広く読み解く作業は、地域の中世史を語るのに有効な方法論なのです。

 その対象として、さまざまな資料の残る霊場は好適といえます。

 著者が考古学を志したとき、先輩からいわれたのは、文字が読めない者はスコップを持てでした。

 自分で掘り出す考古学資料は一次資料であり、自分か歴史を変える発見ができます。

 中世霊場の考古学資料を分析するときには、史料の読み込みは不可欠です。

 考古学資料と同時代の史料が残されているのですから、逆にいえば活用しない手はありません。

 本書でも「霊場を知る」「霊場を定める」「霊場に参り納める」の各章はこのような立場であり、霊場分析のためあらゆる資料を活用しています。

 最終章の「霊場復興」は史料に中心をおいて構成していますが、残されている史料が多いからであり、これも中世考古学の範囲なのだとご理解いただきたいといいます。

霊場寺院の中世―プロローグ/霊場を知る(立石寺の概要と画期/立石寺の発達と画期/山寺立石寺景観の時空/立石寺来訪)/霊場を定める(古代の立石寺/街道と立石寺)/霊場に参り納める(三回にわたる入定窟の調査/その後の研究と成果/如法経所碑と経塚/中世の納骨と信仰/中世から近世の納骨と供養/立石寺と中世石造物)/霊場復興(一相坊円海の時代/法灯の帰還―円海と月蔵坊祐増/法灯の返還―円海と正覚院豪盛/円海と最上義光の関係、鳥居忠政との確執)/今を生きる寺―エピローグ

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Last updated  2022.01.08 08:01:02
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