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2022.03.13
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 光吉夏弥は、石井桃子と共に、1953年に岩波書店で、戦後絵本の嚆矢「岩波の子どもの本」を立ち上げたことで知られています。

 ”光吉夏弥 戦後絵本の源流”(2021年10月 岩波書店刊 澤田 精一著)を読みました。

 1953年初版の岩波書店刊の絵本”ちびくろ・さんぼ”の翻訳者として知られる光吉夏弥について、遺された資料から戦前の仕事と戦後の活躍の背景など、謎多き人生に迫る初の評伝です。

 石井桃子は1907年生まれの児童文学作家・翻訳家で、数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献しました。

 光吉も海外の児童文学の翻訳や紹介だけでなく、舞踊評論や写真評論も行いました。

 児童書の翻訳、バレエの入門書など多数がありますが、自らその生涯を語ることはありませんでした。

 澤田精一さんは1948年千葉県生まれ、山梨大学を卒業し、卒業後、福音館書店に務めました。

 編集者として、児童文学専門誌「子どもの館」で光吉夏弥の連載「子どもの本の世界から」や、月刊絵本「こどものとも」「こどものとも年中向き」「こどものとも年少版」「かがくのとも」を担当しました。

 その後、白百合女子大学や日本女子大学の非常勤講師を務めました。

 光吉夏弥の経歴はさほど明らかではなく、1904年佐賀県に生まれ、慶應義塾大学卒業し、毎日新聞記者をへて、絵本、写真、バレエの研究、評論に活躍するという説明のあとに、代表的な著作が並んで、それでおしまいです。

 この著者紹介はあまりにも簡単であり、実際の生涯は波乱に満ちたものでした。

 しかも、絵本、写真、バレエという三つの異なるジャンルで活躍しながら、その三つのジャンルがどのように関係していたのかも明らかになっていません。

 その活動期間は1925年から始まり、60年間にも及ぶものでした。

 時代も戦前、戦中、戦後とまたがっていて、そこには大きな時代の変動がありました。

 著者は福音館書店に入社したあと、児童文学専門誌「子どもの館」(福音館書店、1973~1983)の編集部に異動して、光吉の連載「子どもの本の世界から」を担当することになり、それは1980年の連載終了まで続きました。

 そのため、何人かの光吉夏弥研究者から取材を受けたことがありましたが、それはあくまでも児童文学に限って、絵本の翻訳研究に限ってのことでした。

 しかし、光吉は三つの異なるジャンルで業績をあげた作家であり、どの分野の活躍も明らかにしないと光吉夏弥研究とはいえないのではないかと思ったといいます。

 そのため、舞踊、写真にはまったくの素人ながら、とにかく足跡だけでもたどりたいと調査を進めてきたそうです。

 光吉は1904年に光吉元次郎、なをの長男として、大阪府北区北野茶屋町に生まれました。

 元次郎は明治維新の前年、1867年に佐賀藩士族の子として生まれたため、夏弥の本籍は佐賀県唐津市となっています。

 元次郎は小学校を卒業すると、長崎の長崎中学校英文中学部に入学し、卒業すると、長崎外国語学校英学部に入学しました。

 かつて佐賀藩は江戸時代末期、藩主・鍋島閑叟のもとで語学教育がさかんでしたが、当時、英語教育では長崎のほうがぬきんでていたようです。

 長崎外国語学校を卒業すると、1889年に慶應義塾別科に入学し、翌年、大学部(文学、理財、法律)が発足し、私立で最初の総合大学となりました。

 それまでの正科および別科は普通部となり、元次郎は1891年に普通部を卒業しました。

 卒業後、1992年に日本綿花株式会社に入社しました。

 綿花の取引のためにインド・ボンベイへ出張し、1895年に帰国しました。

 1896年になると今度はアメリカを歴訪し、1897年に帰国して日本綿花を退社しました。

 同年に、大阪府北区北野茶屋町に居を定め、そこで石谷なをと結婚し、1904年に積男(ペンネーム、夏弥)が生まれました。

 夏弥というペンネームは、婦人画報1925年1月号の「近代舞踏絵巻序観」という評論で始めて使用されました。

 退社してからの元次郎は、スタンダード石油・鉱油部長、細糸紡績・常務取締役、大阪人造肥料・常務取締役、久原鉱業/久原商事・顧問、内外物産貿易・支配人心得などの要職に就きました。

 夏弥は1917年に大阪府立北野中学校に入学し、4年修了してから、慶應義塾普通部へ転校しました。

 1922年に慶應義塾経済学部予科に入学しましたが、1926年に父・元次郎が逝去しました。

 1929年に慶悳義塾経済学部を卒業しましたが、世界大恐慌のあおりを受け就職は困難で、翌1930年に鉄道省国際観光局に就職しました。

 1934年に雑誌「舞踊世界」が創刊され、9月号から同人となりました。

 同年に国際報道写真協会を設立し、1935年に雑誌「Travel in Japan」を創刊して主幹となりました。

 会員は他に、木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三、林謙一など10名でした。

 1936年に「舞踊サークル」を創刊し、池谷作太郎と共に責任編集となりました。

 1937年に国際観光局を退職し、東京日日新聞学芸部に嘱託として入社しました。

 同年に、日本舞踊連盟が設立され、理事となりました。

 理事長は山本久三郎帝劇専務で、理事は他に石井漠、高田せい子、藤蔭静枝などでした。

 1938年に岡田桑三と共に、雑誌「写真文化」を創刊しました。

 1940年に大阪毎日新聞に入社し、文化部、編集部、出版部に勤務しました。

 1942年に退社し、国際報道工芸社に入社しました。

 1946年に中央公論社に嘱託として入社し、1948年に「少年少女」が創刊され編集長となりました。

 同年、中央公論社を退社し、文寿堂出版に入社し、雑誌「金と銀」が創刊され編集長となりましたが、倒産により三号で廃刊となりました。

 1949年にコミックス社に入社し、雑誌「スーパーマン」日本語版を創刊しましたが8号で終刊となり、翌年、コミックス社は倒産しました。

 1952年に平凡社から、「児童百科事典」全24巻が刊行開始となり、編集委員となりました。

 1953年に岩波書店の嘱託となり、「岩波の子どもの本」第一期24冊の刊行が開始されました。

 同年に刊行された、絵本「ちびくろ・さんぼ」の翻訳者となりました。

 「ちびくろサンボ」は世界的に広く読まれている童話、絵本で、もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・バンナーマンが、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本でした。

 手作りの本として誕生したあと、知人を通してイギリスの出版社に紹介され、1899年に英国のグラント・リチャーズ社より初版が刊行されました。

 子供の手に収まる小さな絵本で、文も絵もヘレン・バンナーマン自身によるものです。

 著作権の混乱から、アメリカ合衆国ではいわゆる海賊版が横行しました。

 改変された箇所も多く、特に絵は原作と違うものが使われることが多かったそうです。

 その多くは主人公をインドの少年から、アメリカに住むアフリカ系黒人の少年に置き換えたものでした。

 このことが、後に人種差別問題と深く関わってくることになり、1988年に人種差別の指摘を受け絶版となりましたが、2005年に瑞雲舎からほぼそっくりそのままの形で復刊されました。

 1955年に白水社から、「演劇映画放送舞踊オペラ辞典」が刊行され編者となりました。

 1956年に平凡社から、「世界写真全集」全7巻が刊行開始となり、編集委員となりました。

 同年に光文社から、「世界新名作童話」シリーズ全8巻が刊行開始され、翻訳者となりました。

 1957年に平凡社から、「世界写真家シリーズ」全14冊が刊行開始され、編集委員となりました。

 1958年に平凡社から。「世界写真年鑑」が刊行開始され、編集委員となりました。

 ほかに1977年から、大日本図書から、「ゆかいなゆかいなおはなし」シリーズ20冊、「ぼくはめいたんてい」シリーズ6冊、「傑作ねこの絵本」シリーズ5冊が刊行されました。

 また、1988年にほるぷ出版から、「世界むかし話」シリーズ全16巻が刊行され、瀬田貞二と共に責任編集者となりました。

 1990年に、「絵本図書館(世界の絵本作家たち)」で日本児童文学学会賞特別賞を受賞しました。

 夏弥は、舞踊、写真、子どもの本という三つの世界で、いずれも先駆者であり、翻訳、評論、そして資料の収集とデータ・ベースの構築を生涯かけて続けました。

 それでいながら、そうした文筆活動を一冊の単行本として編むこともなく、指導的な著作も著しませんでした。

 どこかジャーナリストの趣があり、ときには司書のような姿勢をみせることもありました。

 戦前から時代をみる目は確かで、じつにしたたかで、戦時下でもぶれませんでした。

 でも戦後となると、ある意味、夏弥の思うような時代になったはずなのに、なにか齟齬が生じたように感じるといいます。

 本書はその類まれな、謎めいた、真摯で誠実な生涯の全体像を示していますが、解明されなかった謎も少なくないそうです。

まえがき/第一章 それは父から始まった/父・光吉元次郎/その後の元次郎/積男から夏弥へ/第二章 鉄道省外局国際観光局で
/国際観光局に入局するまで/鉄道省は観光立国を目指す/国際観光局の活動/「Travel in Japan」の主幹として/パリ万博への参加/国際観光局 もう一つの顔/グラフ誌の出発は名取洋之助/プロパガンダとは?/第三章 舞踊評論家として/舞踊評論家・光吉夏弥の足跡/「日本」三部曲の台本を執筆/光吉と宝塚/日本少国民文化協会/瀧口修造について/世界の絵本を紹介/第四章 戦後からの出発/GHQの対日政策と児童書出版/編集者、光吉夏弥/漂流する編集者として/ディズニーの絵本とその紹介/『少年百科』で児童文学を紹介/『エブラハム・リンカーン』/『児童百科事典』の編集委員として/第五章 岩波の子どもの本/「岩波の子どもの本」前史/そしてアメリカの影が/アメリカのソフト・パワー/「岩波の子どもの本」とは/第六章 「岩波の子どもの本」以後の活動/「世界写真全集」など/舞踊界での活躍/モダンダンスの歴史を一望に/「子どもの本の世界から-その文献と資料」/数多くの児童書翻訳/絵本とは何か/残されたいくつかの不思議なこと/あとがき/略年譜

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Last updated  2022.03.13 07:27:25
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