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2023.06.11
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 尋尊は1430年生まれの室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧で、大乗院門主です。

 ”尋尊”(2021年10月 吉川弘文館刊 安田 次郎著)を読みました。

 室町時代中期の僧侶で、時代の転換期に門跡の舵を取り、詳細な史料を書き残し、応仁文明の乱や明応の政変の動向や当時の社会・経済・文化を現代に伝えた、尋尊の生涯を紹介しています。

 興福寺は奈良県奈良市登大路町にある法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺の一つです。

 藤原鎌足と藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺として中世にかけて強大な勢力を誇りました。

 父親は一条兼良で、室町時代前期から後期にかけての公卿・古典学者です。

 関白左大臣・一条経嗣の6男で、官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮でした。

 尋尊は1438年に大乗院に入室し、2年後に得度、受戒しました。

 1441年に大乗院門跡を継承し、1456年から1459年まで興福寺別当を務めました。

 その日記”大乗院寺社雑事記”は、寺院経営だけでなく応仁・文明の乱前後の激動する社会を活写する史料として重要です。

 また、年代記”大乗院日記目録”をまとめました。

 安田次郎=ヤスダツグオさんは1950年奈良県生まれ、専攻は日本中世史で、1979年東京大学大学院人文科学研究科博士課程を中退しました。

 2002年に東大文学博士となり、お茶の水女子大学文教育学部助教授、同人間文化創成科学研究科教授を務め、2015年定年退任し、名誉教授となりました。

 尋尊は興福寺180世別当、大乗院第20代門跡でした。

 大乗院は興福寺にあった塔頭の一つで、1087年に藤原政兼の子の隆禅が創建しました。

 その後、関白藤原師実の子・尋範が継承したことから、摂関家特に九条家系の勢力が強かったそうです。

 第4代院主・信円の頃に門跡寺院とされ、中世には一乗院と並ぶ有力な塔頭で、門主は摂関家や将軍家の子弟から迎えていました。

 尋尊は1438年に、室町幕府から罪を得て去った経覚のあとを受けて大乗院に入り、以後70年間在院しました。

 経覚は1395年生まれの法相宗の僧侶で、母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結びました。

 興福寺別当である寺務大僧正を、4度務めたことでも知られています。

 尋尊は1440年に得度し、維摩会研学竪義を遂げ、少僧都・大僧都を経て僧正に任じられ、1456年に興福寺別当に就任しました。

 維摩会は仏法を説くためや供養を行うための僧侶・檀信徒の集まりで、奈良時代には宮中の御斎会・興福寺の維摩会・薬師寺の最勝会の3つの法会が重要視されました。

 この3つの法会の講師を務めた僧は三会已講師と称され、この講師を務めることが僧綱に昇進するルートでした。

 尋尊はのち法務に任じられ、奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任しました。

 1467年から1477年まで続いた応仁の乱では、父親兼良の日記”藤河ノ記”を兵火から守りました。

 これは兼良の紀行文で、応仁の乱による混乱から奈良に避難していた作者が、家族に会うために美濃国へ往復した際の出来事や、歌枕に寄せた和歌などが記されています。

 応仁の乱は、室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の2大有力守護大名の対立を生んだ騒乱です。

 やがて、幕府を東西2つに分ける大乱となって、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となり、戦国時代移行の大きな原因の一つとされます。

 尋尊は大乗院に伝わる日記類を編纂し、”大乗院日記目録”を作成しました。

 これは大乗院に伝来した日記類を、第27代門跡尋尊が編集した書物です。

 全4巻、記録された範囲は1065年から1504年までに及んでいます。

 原本は国立公文書館内閣文庫蔵で、1428年に起こった正長の土一揆などの大事件に関する記述があります。

 尋尊は見聞したことを多くの記録に書き記しましたが、自身の日記”尋尊大僧正記”は興福寺に関することのみではなく、この時代を知る上での必須の史料です。

 この日記と後に門跡を務めた政覚・経尋の日記を併せ”大乗院寺社雑事記”と呼ばれ、室町時代研究の根本史料の一つとなっています。

 これは約190冊あり、原本は1450年から1527年までが現存し、国立公文書館が所蔵し、重要文化財に指定されています。

 尋尊の母親は権中納言中御門宣俊の娘で、出生地は、南は一条大路、北は武者小路、西は町通り、東は室町通りに囲まれた一条殿で、現在「一条殿町」という地名が残っています。

 生まれたとき、父は29歳、母は26歳で、ふたりはすでに3人の男子とひとりの女子を儲けていて、尋尊に摂関家のひとつである一条家の家督を継承する可能性はほとんどありませんでした。

 興福寺の大乗院に入室することになったのは偶然といえますが、いずれ京都あるいは奈良の寺に入って僧として一生を送ることは最初からほぼ決まっていたといいます。

 父親の兼良は、日本史教科書に必ずといっていいほど登場する有名人で、その一生は古典学者として日本の歴史の上に大きな足跡を残しました。

 しかし、尋尊は教科書に名前が出てくることはまずなく、一般にはほとんど無名の存在です。

 いわゆる英雄や偉人とは違いますが、尋尊もある意味で歴史の上に大きな足跡を残しました。

 時代や社会が大きく室町時代から戦国時代に転換した時期に、応仁・文明の乱、明応の政変について、半世紀にわたる克明な日記”大乗院寺社雑事記”をはじめ、欠かすことができない膨大な史料を書き残しました。

 その日記や著述物、書写・編纂したものなどは、この時代の政治、経済、社会、文化を解明するために欠かせないものですが、まだきちんと解読されていないものも多いそうです。

 これらが活用されれば、さらに奥行きのある豊かな歴史が描かれるでしょう。

 最近では遺跡や遺物、絵画、地名、伝承など多様な史料が駆使されて歴史研究は行なわれていますが、文献がもっとも雄弁な史料であることに変わりなく、尋尊の功績は計り知れません。

 当時、大乗院はさまざまな危機のなかにあり、最大のものは荘園領主としての危機でした。

 社会の基礎をなした荘園制は大きく揺らいでいて、荘園と末寺をつなぎ止めておくことは容易なことではありませんでした。

 門主としての尋尊に課せられた役割は、大乗院をできるだけ本来の姿で次の世代に引き渡すことでした。

 尋尊が日記をはじめとして多くのことを毎日筆記したのは、押し寄せる荒波から大乗院を守るためであり、必ずしもあったことを忠実に記録して後世に残すためというわけではありませんでした。

 とすれば、尋尊の書き残した記事のなかには、大乗院の不利になるようなことは省かれ、あるいは都合よく書き換えられたものもあるかもしれないと考えなければなりません。

 本書は、門跡繁昌のために超人的な努力を重ね、その結果として貴重な史料を膨大に残してくれた僧の一生を、その日記を主な材料にして描こうとするものです。

はしがき/第1 一条若君/第2 興福寺別当/第3 門跡の経営/第4 応仁・文明の乱/第5 大御所時代/第6 内憂外患/一条家系図/略年譜

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尋尊(311) (人物叢書) [ 安田 次郎 ]


興福寺のすべて 歴史・教え・美術 改訂新版 [ 多川 俊映 ]







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Last updated  2023.06.11 09:48:45
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