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キタさんのつれづれ日記

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朝来市の歴史

朝来市の歴史
古代から但馬国朝来郡として知られる。初見は「播磨国風土記」神前条の「阿相郡」。「和名抄」には、山口・桑市・伊田・賀都・枚田・東河・朝来・粟鹿・磯部の9郷をあげる。「延喜式」神名帳では、大社として粟鹿神社、小社として朝来石部神社・刀我石部神社・兵主神社・赤淵神社・伊由神社・倭文神社・足鹿神社・佐嚢神社の8座をあげている。中でも粟鹿神社は元々は但馬国一宮だったとも言われることから、但馬国造が居住していたものと思われる。
 鎌倉時代の「但馬国大田文」によると、市域には上皇領・将軍家領・神社領・寺院領などに分かれていた。室町時代には、山名氏が但馬守護となり、生野町黒川に大明寺、山東町一品に大同寺を開いている。山名氏は、丹波の細川氏・播磨の赤松氏と抗争を繰り返していたため、四天王の一人・太田垣氏に命じて竹田城を築かせた。
 羽柴秀吉の但馬攻めにより織豊政権支配下に入ってからは、竹田城主2万石の支配を受けた。天正8(1580)年からの桑山重晴のあと、天正13(1585)年からは斎村広秀が領有し、山頂の織豊城郭と城下町を整備した。ただ、生野銀山のみは秀吉の直轄地とされ、代官による開発が進められた。関が原の戦い後の慶長5(1600)年には、斎村氏の所領は没収され、竹田城も廃城となる。これにより、若干の出石藩領を除いて、ほとんど全域が幕府の直轄領となり、生野銀山の代官所の支配を受けるようになる。文久3(1863)年の生野の変では、尊攘派が農兵を伴って挙兵し、生野代官所を占拠する。変はすぐさま鎮圧されたが、その後は山東町域で打ちこわしが発生している。
 明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦い後、山陰道鎮撫軍の薩摩藩兵が生野代官所を接取、生野役所を置いた。のち、明治4(1871)年の廃藩置県に伴い、豊岡県の所属となる。明治9年には兵庫県に編入される。明治22(1889)年には生野町、昭和5(1930)年には和田山町、昭和29(1954)年には朝来町・山東町が誕生した。


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