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巖谷國士氏が『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)という本で、「お話し」を例にあげてシュルレアリスムの特徴を解説していますので、紹介していきます。理由は、そうすることによって、シュルレアリスムを特徴づけるあの魅力的な「何か」の正体が明らかになりますし、「キダム」と「夢から醒めた夢」の違いも自ずと理解できるようにもなりますから。
「お話し」には、メルヘン(おとぎばなし)、神話、伝説、寓話、童話などがありますが、シュルレアリスムに相当するのはメルヘンです。以下に、メルヘンと他の「お話し」の違いを列挙していきます。 1) メルヘン=おとぎばなし おとぎばなしは、相当に古い口承の文学形態で、人間の文化の発生以来あったと考えられています。 「とぎ(伽)」という言葉は、暇なときに相手をするという意味です。つまり、暇な時間を退屈しないようにすごすための「お話し」がおとぎばなしということになります。 人間に暇な時間ができたのは、多分、農耕がはじまってからで、狩猟時代には(移動などに忙しく)そう暇な時間がなかったであろうと考えられています。農耕も文化も英語でcultureですが、農耕によって暇な時間ができて文化(文学)が芽生えた、と解釈できます。 さらに、狩猟から農耕への移行は、おとぎばなしの内容自体にも重要な意味をもちます(後述)。 2) 作者(=「私」=自我)の不在 メルヘンには、個人としての作者は存在しません。 現在われわれが普通に考える作者というのは「私」すなわち自我をもった人間で、その作者が何かを表現しようとして書くことになり、その作品は自我からの創出ということになります。メルヘンは、もともとは特定の個人(作者)がつくったものなのでしょうけど、その個人性がいわば希釈されて、集団のなかから自然発生的に生まれたきたものだ、という印象をうけます。 その結果、メルヘンは、主人公の内面的な葛藤というものが描かれることがほとんど無く、以下のようなことになります。 ===== 「眠れる森の美女」では、・・・・姫は十四歳になると、その予言どおり紡錘にさされて百年間の眠りにつく。それまでに彼女がどう思い悩んだか、なんていうことはひとことも書かれていない(笑)。 おとぎばなしとはそういうものですね。たとえ悲しんだり悦んだりする場面があったとしても、それは「かつてないほど悲しみました」とか、「たいそうな悦びようでした」とか、紋切型の形容たったひとことですませてあって、どういう個別的な悲しみや喜びだったかは何もいわない、つまり、人間の心理の細部が反映しないように語れているのがおとぎばなしです。そのことは個人というものから発していない、集合的な、人間の集団のなかから生まれた自然発生的な文学だという性質に由来するように思えるんです。・・・・ それから、たとえば稲垣足穂の『一千一秒物語』なんかはどうだろう。あれもおとぎばなしを思わせるところがあります。どこがおとぎばなしを思わせるかというと、まず心理がない。『一千一秒物語』の特徴は、「自分」とか「ある人」とかが出てきますが、それは特別の個性をもった人間ではなく、そもそも名前がほとんどの場合ない。「ある人」はいろいろ考えたり悩んだりしない。ここではむしろ、「ある人」の見ている前でいろんな不思議な出来事がおこるだけです。・・・・ もうひとつ、渋澤龍彦の『高丘親王航海記』あたりはどうだろうか。渋澤さんは長いこと「私」を問いつづけてきた作家だと思う。・・・・おとぎばなしにちょっと似たところがあるというのは、まずこの作品には自我というものがあまり感じられないからでしょう。「私」の心情や体験があまり投影されていないがゆえに、逆にノスタルジックであり、物悲しい感じがする。渋澤さんは早くに亡くなってしまったけれども、もしそのまま生きていたとすれば、いっそう近代的な自我をこえる方向にむかったのではないかと想像されたりするんです。 それにいま、文学はそっちに行ったほうがおもしろそうだともいえます。だいたい読むにあたいするもののなかには、いわゆる自我にこだわっていないものが多い。「私」がすったもんだして、さんざん悩んだり倦怠したり自己愛にふけったりしている作品など、もちろん書きかたにもよりますけれど、ぼくはもうあんまり読む気がしませんね。 (『シュルレアリスムとは何か』) ===== お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 30, 2003 01:20:35 AM
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