北 の 狼

2005/02/09(水)01:37

続・『ノン、あるいは支配の空しい栄光』

”俺たちは、いったい何のために戦っているのか?” アフリカ植民地のゲリラを鎮圧するために派遣された部隊のカブリタ少尉が、軍用トラックで揺られながらこう呟きます。 対して、まわりの仲間たちが思い思いに「戦う理由」をあげていきます。法律、愛国心、国益、家族・・・・しかし、本土防衛のためならいざ知らず、植民地の独立運動を弾圧するという行為を正当化しうる理由はついぞ提示されません。 そもそも、この時代(第二次世界大戦後)に植民地を保持すること自体がポルトガルにとって良いことなのか悪いことなのか、という問いにさえ誰も答えが出せないのです。 良いことといえば、植民地支配によってアフリカの部族同士が争うことを止めポルトガルに反抗し一致団結できたこと、また、これら部族の団結にあたって公用語(統一語)としてのポルトガル語が大いに役立ったこと、というブラック・ジョークのようなものしか兵士たちは思いつきません。 カブリタ少尉は、やがてポルトガルの四つの敗北の歴史を語っていきます。 1) ローマ時代、現在のポルトガルにほぼ一致する地域を支配したいたのはルシタニア族でした。紀元前2世紀、カルタゴを打ち破ったローマ軍は、その勢いをかってイベリア半島に攻め込みますが、ルシタニア族は指導者ヴィリアの活躍でこれを退けます。しかし、紀元前139年、ローマ軍に内通した身内の裏切りにあってヴィリアは暗殺されてしまいました。結局、紀元前後にポルトガルはローマに征服されます。 2) 15世紀後半、イベリア半島はカスティリャ、アラゴン、ポルトガルの三つの王国が割拠しており、それぞれの王国が統一の機会をねらっていました。ポルトガル国王アフォンソ5世は、カスティリャの王位継承問題に介入してスペイン進出をねらいますが、トロの戦いに敗れて野望を打ち砕かれます。後を継いだジョアン2世は、政略結婚によって統一王国を目指しますが、息子のアフォンソ王子がカスティリャの王女の結婚した直後に落馬して絶命してしまいます。こうして統一王国の夢はついえたのでした。 3) 16世紀、虚栄心が強く狂信的な気質をもつセバスチャン王は、イスラム征伐に固執し時代遅れの十字軍戦争を計画します。1578年、モロッコのお家騒動に便乗して北アフリカに上陸するも、アルカセル・キビルで歴史的な敗北をきっします。国王自身が行方不明となり、世継ぎがいなかったためアヴィス王朝は途絶え、ポルトガルは以後60年間スペインに併合されてしまいます。 4) この映画の”いま”の舞台となっている20世紀後半。第二次大戦後の1960年は「アフリカの年」と称され、イギリス領やフランス領だった地域の多くは独立を果たしました。しかし,ポルトガルは国連の勧告にもかかわらず一切の独立を認めませんでした。1960年代後半から,ギニア=ビサウ、アンゴラ、モザンビークで独立運動が激化しましたが、サラザール独裁政権は多額の軍事費を投じ,勝つ見込みのない植民地戦争を継続させたのでした。 戦争が長期化するにつれ、1974年4月25日リスボンで軍がクーデタをおこし,放送局や政府の諸機関を占領しました。首謀者は3月半ばにカエターノに解任された前参謀総長ゴメス将軍と同次長スピノラ将軍で、スピノラを中心に臨時政府が発足し,言論の自由・労働組合の許可・自由選挙の実施が宣言されるとともに(「カーネーション革命」)、ポルトガル植民地帝国も滅びたのでした。 映画の舞台は「4)」の途中ですので、「歴史を語る」というより、歴史の反復性と運命にこの部隊の兵士たちが翻弄されながら破滅的な結末へとむかう「実体験」ということになります。つまり、カプリタ少尉をはじめとして、多くの兵士がゲリラとの戦闘で負傷し命を落とすことになります。 しかし、この映画に終始漂う閉塞感は何でしょうか。 もちろん、植民地支配は現代ではもはや肯定的に語ることはできませんので、植民地と密接不可分の関係にあるポルトガル近現代史を語ろうとすると、どうしても暗いものなってしまうという事情はあります。それに加えて、その暗さが、個人の内面にまで重く影をおとしており、それがえも言われぬ閉塞感の原因となっているようです。 兵士たちは国家のために戦いますが、必ずしもその戦い自体の意義を理解しているわけでも、賛同しているわけでもありません。しかし、彼らは家族や生活を抱えているわけで、それを犠牲にしてまで政府の命令に逆らうわけにはいきません。この「生活の糧を国家に依存しているが故に、国家の命令には逆らえない」という構図がもたらす絶望的状況、それがもっとも明らかになるのが戦争という事態なのです。 映画中、この絶望的状況をなんとか糊塗しようと、兵士たちは愛国心、正義、国益などを口にします。しかし、このような(絶望の)「飼いならし」は、遠い場所でデスクにふんぞり返って命令をだすのみの連中にとっては意味があるかもしれませんが、戦場という外面的にも内面的にも厳しい現実に直面している兵士にとっては偽善にしかうつらず、なんの説得力もないのです。なぜなら、彼らにとっての愛国心、正義、国益なぞ、戦闘相手のそれらと真っ向から対立するもの、つまり他者(戦闘相手)によって簡単に相対化されうるものなのですから。 民主主義国家といえども戦争を行わざるをえない状況が出来しえますが、その時本当に怖いのは、この絶望感に捉われてニヒルに陥ることかもしれません。独裁国家や軍事主義国家のほうが、戦争の悪を国家に転嫁できるので、まだ気が楽ともいえます。 この出口のない絶望感を、オリヴェイラ監督は「ノン」と称しているわけです。 ”NONとは恐ろしい言葉だ。それには表もなく裏もない。どちらから読んでもNONだ。まるで自分の尾を咬む蛇のようだ。” 『プラトーン』、『フルメタル・ジャケット』、『地獄の黙示録』といった新しい戦争映画の基調をなすのは、戦争というものに対するこの感覚です。

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