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鏡の国の落としあな

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2009.12.17
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カテゴリ:歴史と文学

こんばんは。

前回のアンネ・フランクの記事を読んでくださった皆様、本当にどうも有り難うございます。

出来ることなら、アンネの家の中の写真を載せながら書きたかったのですが、あいにく撮影禁止でして残念ながらお載せすることは不可能だったのが心残りです。

でも皆様、けっこうアンネの日記を読んでいらっしゃるんですね。

そういうわけで、もう少しこの隠れ家について書くことにいたしました。

画像は、アンネ・フランク記念博物館のHPから引用いたしましたことを申し上げておきます。

 

アンネ・フランク(1941年)、隠れ家に移る前の自宅で

下矢印

Anne Frank.jpg

 

彼女の日記を読まれた方はご存知だと思いますが、私は「ユダヤ人はユダヤ人特徴の顔をしているので、すぐに分かってしまいます」と日記に書いてあったと鮮明に記憶しております。私はこの博物館で彼女の姉のマルゴットの写真を見ましたが、眼鏡をかけているということ以外は、アンネに全くそっくりであったのでビックリいたしました。

彼女の隠れ家の画像は前回の記事に外装の写真を載せております。

実際、隠れ家のあったところというのは、父オットー氏の会社のあった建物の裏側にあるわけで、下の青い部分の右の建物の部分が隠れ家のあったところになります。

彼女は隠れ家に移るその日のことを以下のように記しています

 

・・・というわけで、パパとママと私は降りしきる雨の中を歩いて行きました。手にはそれぞれ通学カバンだのショッピングバックだのを下げていて、それにはありとあらゆるものが手当たりしだいにあふれるほど詰め込んでいます。

通りかかる出勤の人々は気の毒そうな目で私達を見ています。その表情を見れば、乗せて行ってあげようといえないためにつらい思いをしてるのが分かります。いやでも目につくどきつい黄色の星、それがおのずから事情を物語っているのです。

 

Onderduiken_luchtfoto.jpg

 

このくだりを読むと、私が以前ピアノを教えていたおばあ様で前大戦中、チェコのズデーテン地方(前ドイツ領)にお住まいで敗戦後、捕えられてしまった彼女が私に語った次の言葉を思い出します。

 ねえ、想像できます?

いきなり入ってきて、さあ、今から5分間だけ時間をあたえるから荷物を詰めろっていうのよ。5分間だけで今までの自分の人生を手荷物ひとつに詰めるなんて、あなた想像できます???

出来ないでしょ、でもその出来ないことをやらなければいけなかったのよ・・・・・・どうしようもないわね


倉庫、事務所のあった部屋は現在、展示品などを並べてあり当時の面影は殆ど残っておりません。

ただ、壁のところどころに父オットー氏の会社の宣伝ポスターが当時のまま貼ってありました。(どうもジャム製造に必要な材料を売っていたようで、ジャムを作るのならオペクタを、という内容の張り紙でした)

その倉庫や事務所のある階を通ると、いよいよあの回転ドアのところに来ます

 

回転する本棚のドア

下矢印

thema 9_draaikast zwart wit.jpg



この本棚を過ぎると急な木の階段があり、そこを昇るとアンネの両親と姉のマルゴットが寝起きしていた部屋に出ます。

その隣はアンネとぺフェッファー氏(匿名、デュッセル氏)の部屋、それを抜けると洗面所、その横にまた急な階段があってファン・ペルス夫妻(匿名、ファン・ダーン夫妻)の部屋兼隠れ家の台所、その隣にペーターの部屋がありました。

 

 アンネの日記

下矢印

dagboek_voorkant.jpg

この日記は博物館にオリジナルが展示されていました。

いかにも少女の好みそうなデザインなのが心を打ちます。

私が今まで知ってた彼女の筆跡は、大人のような斜体の筆記体だったのですが、この博物館で公開されたひらげられてたページはブロック体だったんです。

で、そのブロック体はいかにもまだ子供を思わせる書体で、それ以前に知ってた大人のような筆記体とのギャップに驚きました。

この日記は彼女達が捕まった後、床に荒々しく投げ出されていたのを、隠れ家の協力人でオットー氏の従業人であったミープが彼女の事務机に保管し、唯一生き残って帰ってきたオットー氏に戦後渡したものだといいます。

父オットー氏のインタヴューが博物館内のヴィデオでこう流れていました(ちょっと私の記憶がうろ覚えの記憶なのが申し訳ないですが・・・・雫)。

 

私は・・・・・・・・この日記を読んで初めて自分の娘を知りました。

彼女は普段、私達にいろんなことを話して聞かせていました・・・・・・でも、自分の感情や気持ちについては一切語らなかったんですよ・・・(ここでうつむく)、あの子が何をどう考え、感じていたなんかなんて全く知らなかったんです。そんなことは一切、話さなかったですから・・・・・・・・

 

オットー氏はこの日記を出版するように、周りの人から再三勧められますがその気は当初全くなかったようでした。

が、アンネが生前、将来作家になりたいといっていたことなどから、この本を出版することに同意しました。

その後、映画化、舞台化されましたがオットー氏はそのプレミエには来られなかったようです。

 

私にとってこの劇は人生の一部であり、自分だけでなく妻や子供達が舞台で演じられていると思っただけで心が痛みます、ですからとても見に行くことは出来ません。

 

アンネの生涯だけがこのように注目されるのはおかしいと思われる方もたくさんいらっしゃるようです。アンネはその他大勢の大量虐殺されたユダヤ人の一人に過ぎないわけで、彼女と同じような運命をたどられた方は多かったことでしょう。このことについてアウシュヴィッツから生還したイタリア人作家の以下の言葉をもってこの記事は終わります。

 

この一人のアンネ・フランクは他のおびただしい数の名も知れぬ犠牲者達の全てをあわせたよりも私達の心を揺さぶる。それはそれでよいのかもしれない。もし、その一人ひとりの苦しみを私達が分かち合うことが出来、実際に分かち合わなければならないとしたら、私達は生き続けることが出来なくなるだろう。

 






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Last updated  2009.12.17 09:38:45
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