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鎌倉橋残日録  ~井本省吾のOB記者日誌~

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2013.03.31
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カテゴリ:生活・人生
 ここ数日、首都圏や静岡近辺を電車とクルマで回る機会があった。あらためて、思ったのは車窓から見える桜の多さ。まあどこへ行っても川辺には桜並木、工場や事業所の敷地内には見事な樹齢の桜が満開で、風そよぐほどに花びらが舞っている。

 「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」

 本居宣長の有名な歌がしみじみと浮かんでくる。日本人であること、日本人の心の原点を探れば、そこに桜の花が広がっている。多くの日本人がそう思っている。だから、あれほどあちこちに、それこそ日本国中に桜の木が植えられ、春の訪れを寿ぐ花見の酒宴が催されるのだろう。

 満開に桜の木をあおぐように眺めていると、ああ、日本人に生まれて良かった。こんなすばらしい自然の美しさを堪能できる贅沢を味わえるのだから。

 この気持ちが心の奥深くにある。桜、花見は日本の文化であり、さらに深く日本人の信仰心の骨格をなしている。桜を基点に春夏秋冬の自然の移り変わりを愛でる気持ちが自然信仰となり、神道に結びついている。仏に帰依するよりも自然に帰依しているのである。

 よく日本人は無宗教だといわれる。その際、指摘されるのが、同じ人が結婚式はキリスト教の教会、お葬式は仏教のお寺、そして新年の祝いや入学・就職シーズンには願をかけに神社に行くということだ。外国人が時に冷笑を含んでそう指摘し、それに呼応して日本人が自嘲気味に頷く。よくある光景だ。

 日本人は無節操でいい加減、宗教心がないというわけだ。高学歴で舶来思想をありがたがる知識層ほど、そうした日本人の宗教心を批判しがちである。

 だが、これは間違っている。日本人の宗教心の原点は自然信仰であり、その中核に神道があると思われる。その宗教心には包容力があり、他の宗教を排除しない。美しいもの、価値あるものは受け入れて行く。だから、結婚式や葬式をどの宗教の儀式で行うかにはあまりこだわらず、自由に選ぶのだ。

 しかし、信仰心とは選ぶことができないほど自然に心にしみこんで行くものだろう。祖父母や両親に伴われて花見に行き、四季折々の山川草木に触れるにつれ、自然信仰が日本人の心を形成して行く。

 その信仰心は深く、どの宗教が外から入って来ようと失われない。だから、表面的な儀式は受け入れても、キリスト教やイスラム教に帰依する人は少なく、日本に根付かない。仏教ですらそうだ。葬式宗教と言われるほど、根付いているが、そこまでである。

 より正確に言えば、仏教は自然信仰に沿う形で根付いているというべきだろう。奈良時代から寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺が建てられたりして神仏混交、神仏習合という事態が広がったのも、そうした日本人の信仰心に由来している。

 根は自然信仰にあるのだ。60代半ばを過ぎた昨今、年経るごとに、その感を深くする。

 「願わくは 花の下にて春死なむ その如月の 望月のころ」

 12世紀の西行法師が吉野に旅した折、桜の樹木に囲まれる中で歌ったと言われるこの歌に、共感を覚えるのは、私ばかりではあるまい。

 





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Last updated  2013.03.31 11:02:09
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