遠方からの手紙

2008/08/20(水)00:35

オリンピック雑感

歴史その他(34)

 先日、なんとはなしに youtube を見ていたら、レニー・リーフェンシュタールの記録映画 『意思の勝利』 と 『民族の祭典』 の画像を見つけた。  前者は1934年のナチのニュルンベルク党大会を映したものであり、後者は1936年のベルリンオリンピックを記録したものである。ヒトラーと個人的にも親しかった建築家のシュペーアが設計した古代ギリシア様式の党大会場に、鉤十字の巨大な幟が林立する光景は、本当にこれが20世紀なのかというような異様な光景である。 どちらの映画にも、ちょびひげの伍長の姿が映っている。軽く右手をあげて観衆の歓呼に応じるその姿は、チャプリン演じる独裁者にそっくりだが(いや、反対だ、チャプリンがヒトラーを真似したのだった)、背格好もどちらかといえば貧相であって、どう見てもカリスマ性のある人物とも思えない。ただし、彼の演説には、たしかに聞く者の興奮を高める力があるようだ(もっとも、なにを言っているのかはさっぱり分からない)。 どの映像で見ても、ヒトラーの姿にはいつもどこかに神経質そうな気配が漂っており、傍らで悠然としている太ったゲーリングのほうが、だれが見ても偉そうである。実際、映画の撮影などでは、腕を小刻みに震えさせたりといった、ヒトラーのそういう姿はなるべく映らないように、周囲や撮影スタッフが気を配っていたという話もある。 リーフェンシュタールはこの二本の映画のおかげで、ナチの協力者という烙印を押され、戦後は戦犯容疑で4年間投獄されたという。その後、裁判では無罪となったものの、いったん貼り付けられたナチの協力者というレッテルはなかなか消えず、長い間失意の状態が続いていた。 その彼女が再び脚光を浴びたのは、アフリカのスーダンに住むヌバ族の女性らを写した写真集によってだった。そのとき、すでに彼女は70歳を超えていたが、最後の映画を完成したのは、なんと100歳のときだったというから驚きである。彼女の場合、長命と健康もまた、偉大な才能の一つだったというべきだろう。 オリンピックの記録映画といえば、われわれの世代にとっては、もちろん市川崑の 『東京オリンピック』 である。小学二年のときに、学校の行事で近くにあった映画館で見た記憶がある。市川の映画は、いきなりオリンピック準備のために古いビルを解体する映像から始まるが、それは今思えば、まさに 「破壊への情熱は、同時に創造への情熱である!」 という有名なバクーニンのテーゼを映像化したもののようである。 東京オリンピックはもともと、ベルリン大会の次の1940年に予定されていたのだったが、日中戦争の長期化によって返上することとなり、結局は1939年のドイツのポーランド侵攻による第二次大戦勃発とともに、オリンピックそのものが中止に追い込まれた。 当時の経緯を知る者らにとっては、それから20年後の東京オリンピックは、戦後復興の証であると同時に、ひょっとすると、東洋初の五輪大会として、現実の前に脆くも潰え 「大東亜共栄圏」 へと変質せざるを得なかった、かつての 「東亜協同体」 という夢と理念の代わりだったのかもしれない。 たとえば、東京五輪で組織委員会の会長を務めた安川第五郎という人物は、戦前にファシズムにかぶれて東方会を組織し、最後には東条によって自殺に追い込まれた中野正剛と同郷であり、中学の一年後輩に当たっている。 前回のアテネ大会で金メダルを取った柔道の鈴木桂治は、今回は1回戦で敗退し、続く敗者復活戦でも敗れて、とうとう1勝もできなかった。同じように連続優勝が期待されていた女子マラソンの野口みずきは、左足ふとももの肉離れが原因で欠場した。 当人らは、むろん悔しいだろう。だが、そんなことは、どうでもいいではないかと思う。東京五輪で、競技場に帰ってきてからイギリスのヒートリーに抜かれ、銅メダルに終わった円谷幸吉をその後に襲ったような悲劇さえ起こらなければ。

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