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カテゴリ:ネット論

 天気図を見ると、すでにオホーツク海気団が列島の北端を覆っており、季節は秋に入ろうとしている。秋が来たと目にははっきりしていないが、風の音には驚いてしまう今日この頃である。もっとも、毎年毎年気をつけているわけではないので、これが例年に比べて早いのか、遅いのか、それとも普通のことなのかは分からない。

 ところで、別に最近というわけでもないが、ネット上では、しばしば 「私は少数派だ」 とか、「おれは一匹狼だ」 とか、ことさらに言い立てている人を見かける。そういう人らを見るたびに、なにか、ちょっと不思議な気がする。

 歴史を振り返ると、たとえば、性的志向に関しては 「少数派」 に属する人の中にも、しばしば権力志向が非常に強い人がいる。「長いナイフの夜」 と呼ばれるナチス内部の粛清で殺された、突撃隊の隊長だったレームなどはその典型だろう。もっとも、彼らの場合は、その男色趣味がそもそもマッチョという性格を帯びていたというべきだろうが。

 世の中、「多数派」 であることが別に偉いわけでもないように、「少数派」 であることに特別な価値があるわけでもない。ことさらな 「少数派」 気取りが、「私はあんたたちとは違うのよ、一緒にしないでちょうだい」 といった単なる 「エリート意識」 や、他者との 「差別化」 指向、あるいはたただのナルシズムの表れでしかないことは別に珍しいことでもない。

 そもそも 「少数派」 か 「多数派」 かを分ける軸など、世の中にはいくらでもある。食の好みに関しては 「少数派」 だけど、音楽の好みに関しては 「多数派」 だという人もいるだろう。どっちが多数でどっちが少数なのかは知らないが、作家では村上龍より村上春樹のほうが好きで、でも、歌では宇多田ヒカルより浜崎あゆみのほうが好きだという人もいるだろう。

 むろんそういう嗜好は、すべてが互いにまったく無関係とは限らず、一定の相関性というものもないではない。とはいえ、どんなくくり方をしようと、それで、個人の全体を捉えることなど不可能な話だ。その軽重はたしかにいろいろだが、「少数派」 か 「多数派」 かの区別など、しょせんその程度のことである。

 民族問題を例にとれば、たとえばセルビアは今の国際社会では 「少数派」 である。しかし、セルビア国内ではセルビア人は圧倒的な 「多数派」 である。とはいえ、コソボだけを見れば、今度は圧倒的な 「少数派」 である。結局、そのようなマジョリティ・マイノリティの区別などは、せいぜい枠の取り方の問題でしかない。

 人はみなそれぞれ違うのは当たり前のことであり、それはわざわざ、「私はあなたたちとは違うのです」 などと、大声でアピールするほどのことでもない。そもそもそうやって、ことさらにアピールしようという身振りが、すでに今の社会においてはごくありふれた 「多数派」 の行動様式でしかない。

 それに 「少数派」 を自称しながら、そのグループの中では恥ずかしげもなく 「多数派」 然として振舞っている人らも、世の中には珍しくない。「少数派」 だ、「多数派」 だなんて区別は、たいていの場合、そんなものである。群れたがる 「少数派」 なんてものは、なにかの拍子で 「多数」 になれば、間違いなく、今の 「多数派」 とまったく同じ行動をするようになるだろう。

 たしかに、世の中には、何事につけ多数派に与したいという者もいるかもしれない。なにも戦後直後のような物資不足の時代でもないのに、列があればとりあえず並んでみたくなるとか、選挙になれば優勢と噂されている 「勝ち馬」 のほうに必ず投票するとか、大勢でなにか騒いでいたら、なんでもいいから一緒に騒いでみたくなるとか。

 むろん、野次馬根性は誰にでもあるものである。夜の通りを疾走するパトカーや消防車のサイレンには、人の心をざわめかせるものがあり、子供ならずとも、ついていきたくなる。近くで煙があがっていたりしたら、箸を置いてでも駆けつけたくなる。しかし、これはもう本能みたいなものだろうから、しかたあるまい。

 だが、たいていの人間は、一つや二つぐらい、これだけは譲れないという 「こだわり」 というものを持っている。その限りでは、誰しもが、どこかで 「少数派」 でありうる。しかし、そんなことはありふれているのだから、そう考えれば、別にことさらに 「少数派」 なわけでもない。

 漱石の 『門』 は 『それから』 の続編のようなものだが、そこに出てくる昔の親友から妻を奪った宗助は、その負い目から、「ひさしに迫るような勾配の崖」 の下の家で、妻のお米と世間の目を避けるようにしてひっそりと暮らしている。

 暴露の日がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこに炎に似た焼印を受けた。そうして無形の鎖でつながれたまま、手を携えてどこまでも、一緒に歩調をともにしなければならないことを見いだした。

 彼らは親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく言えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からはむろん棄てられた。ただ表向きだけはこちらから退学したことになって、形式の上に人間らしいあとを留めた。

 
 漱石は、二人をそういうふうに描いている。どこにも属せないという疎外感を抱えた本当の少数者は、たぶんいつの時代でも、そういうふうに、社会のすみっこで 「小さく」 生きているものだろう。

 たしかに、人はみなそれぞれ違うものだ。とはいえ、たいていの人間は、自分が思っているほど、他人と違っているわけでもないし、その逆もまた然りである。「井の中の蛙、大海を知らず」 という諺もあるが、他人との違いなんてものは、多くの場合、その程度のものである。

 天才といわれたアインシュタインだって、難解な相対性理論を発表したことを除けば、ちょっとばかり変わったおじさんというだけのことだろう。むろん、あったことも話したこともないけれど。






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Last updated  2008.08.23 18:34:52
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