衛星写真で読み解く木村城と西谷をむすぶ道
GoogleEarthの新ヴァージョンに、竹原小早川氏の居城である木村城周辺の衛星写真が加わりました。衛星写真のターゲットは広島空港ですが、おかげで竹原小早川氏の本拠地周辺や沼田小早川氏の本拠地周辺の地形が手にとるようにわかります(地形どころか、拡大すれば1軒ごとの家のかたちまですべてわかります)。さっそくGoogleEarthを使って、竹原小早川氏の本拠である木村城周辺を空からのぞいてみましょう。画面の東側に木村城、その北側に小早川氏の氏神である八幡社(僧侶〈そうず〉八幡宮)、さらにその北側、国道二号線沿いに氏寺の法浄寺跡があります。小早川氏の館跡は、はっきりしませんが、「谷から広がる中世」(『専修史学』32号・2001年)のなかで詳細に論じたように、城の西側にある手島屋敷とみてほぼ間違いないでしょう。木村城からみると、画面右から2本目の道路のつきあたり、右手側にみえる大きなお屋敷が手島屋敷になります。また、画面の左手にみえる谷が青田谷です。いま一度、衛星写真を見ると、木村城の北側にも、茶臼山〈ちゃうすやま〉という城跡があります。木村城ほどの規模ではありませんが(主郭は17メートル四方)、東西の道と南北の道を押さえる位置にあり、小早川一族か、重臣クラスの城ではないかと考えています。木村城の西側は、賀茂川が流れていますが、この川は、北から南へと流れ、やがて瀬戸内海に注ぎます。その源流は、画面左側の萬福寺跡の印がある西谷(にしたに)地区のさらに南側となり、西谷を蛇行しながら、やがて北側を東西に走る国道2号線を横切り、山につきあたると、いっきに東に流れをかえて、手島屋敷の背後の山(本城山)にそって流れ、茶臼山城の南側あたりで、大きくカーブを描きながら、木村城下と想定される東野(ひがしの)方面に流れてきます。このため、いまも、東野から西谷へむかうには、この賀茂川に沿って作られた道路を使い、大きくUの字を描くように迂回して行きます。しかし、賀茂川が西谷から山にぶつかって東に角度をかえるあたりは、むかしは川の氾濫源と推察され、足場も悪かったことでしょう。橋ができる前は、川には石が置かれて、それを渡って、東西に走る山陽道に出たそうです。事実、この近くにある簡保の宿の温泉を掘るためにボーリングをしたところ、一番下に岩盤があり、その上の地層には何度も洪水をうけた形跡がみられたといいます。したがって、道路が整備される以前は、たがいに山の道―つまり、城のある東野側からは、青田谷や、賀茂神社の南側にある柏野(かいの)の谷を通って、交流をもっていたようです。しかも、その関係は、深いものがありました。この土地は、中世、賀茂社の荘園「竹原荘」だったことから、賀茂神社が祀られていますが、いま東野にある賀茂神社の氏子は、西谷側にも広がっていました。また、賀茂神社の境内に祀られている八幡宮も、もとは、西谷にあったという伝承が『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳 賀茂郡竹原東野村』(文政2年)に記載されています。「先年ハ、大明神ハ御山東ノ谷、八幡宮、西の谷ニ有之、然ルニ元和六申年五月廿日より廿一日、大洪水ニ山抜、両社共流失、依而再興、両社一宇ニ相成申候」これによると、元和6年(1620)5月21日から22日にかけての大雨で山が崩れ、東の谷(柏野の谷)の賀茂社と、西の谷の八幡宮が鎮座する山がともに崩れたため、八幡宮を東の谷に勧請して賀茂社といっしょに再興したというのです。この八幡宮があったと伝えられている場所は、画面からわかるように、賀茂社の南側にある谷をのぼって峠をこえ、西谷側に出た正面の山あたり、イモガザコとよばれる場所になります。その西谷の風景です。東野の柏野の谷から続く道は、画面右手にみえる山のむこうがわにおりてきます。その山すそと対置するようにみえる左手の山裾周辺が、むかし八幡社があった場所と伝えられています。このほか、『安楽寺旧記』(成立年未詳)によると、賀茂社は、「都之鴨より御勧請、当所へつきの時、芋カ之大石の上に御腰休、夫より東ノ谷へ御遷宮在候」という伝承もあったようです。これによると、賀茂社そのものも、西谷から勧請したということのようですが、このあたりはどこまで真実を伝えているのか、はっきりしません。ただ、こうした伝承がうまれるところに、両者の深い結びつきを想定できます。東の谷、西の谷という呼び方も、両方の谷が密接にむすびついていたことに由来するのでしょう。西谷に住む古老のかたによると、西谷の北側(賀茂川の氾濫源地域)の村との交流はあまりないが、東野との交流はあるといいます。いまならば、山の反対側どうしの村との交流は、考えにくいことですが、むかしは、山の道で結ばれた深いつながりがあったのです。そして、この西谷を通る道は、さらに画面の南方向に進むと、山越えをして、安芸国の中心地、西条に抜けました。西条は、戦国時代、山口の大内氏が安芸支配のために築いた鏡山城があり、大内氏の重要拠点でした。こうした点からすると、大内方として行動する小早川氏にとって、木村城から柏野の谷を抜けて西谷に出るこの道は、西条に通じる重要な道だったのではないでしょうか。