2003/03/30(日)11:09
現代のドストエフスキー/大江健三郎 後藤明生 吉本隆明 埴谷雄高
ドストエフスキー死後百年祭に行われた講演をもとにまとめられた一冊。 甲子園高校野球決勝でノーヒットノーランが成し遂げられた夏、『カラマーゾフの兄弟』を、売られた喧嘩を買う気分で十日かけて読んだ。初めて読むドストエフスキーだった。感想めいたことを書いた。前半はほとんどノーヒットノーランのことについて書いた。本当に印象に残ったのは準決勝であり、決勝のことはニュースで知っただけだったかもしれない。たまたま見ていた高校野球とたまたま読んだ『カラマーゾフの兄弟』に、恥ずかしながら、私の人生ははっきりと影響を受けた。 私の子供の時の読書の印象では、エピローグ以前のラスコーリニコフは、さきにいった「ツー・ビート」のたけしのような人物だったけれども、自首したあとのエピローグでのかれは、おなじ「ツー・ビート」のきよしのような、ああいう善良な人間になっている。その善良なかれにソーニャの愛が捧げられるのだと、そう読みとっていたのである。 ところが今度あらためて読んでみると、エピローグでもまだ、たけしはたけしなのです。あまりうけない時、頭が痛い痛いとたけしがいいますが、あの程度に自分を反省する以外には、ラスコーリニコフは自分が悪いと思っていない。山形県は新石器時代の人間が住んでいるとか、老人は殺せとか、ブスの女性は何とかだとか、全く反省していないたけしのようなラスコーリニコフが、まずエピローグの前半にいるのです。大江健三郎『ドストエフスキーから』より ちなみに名前こそはっきりと書かれないが、小説『取り替え子』の中にもたけしについて言及する場面がある。 私はその後次々とドストエフスキーを読んだ。『罪と罰』『貧しき人々』『死の家の記録』『白痴』『悪霊』『未成年』『賭博者』『永遠の夫』『白夜』『地下室者の手記』かなり間を置いて『虐げられた人々』。何も確かめず書いているので抜けてるものがあるかもしれないが、大体こんなところだろう。『分身』はまだ読んでいない。まだ他にもドストエフスキーの作品はあるが、自分の中でキリがいいとこで止めた。今思えば急ぎすぎた。本書を読んで分かったが、スヴィドリガイロフとルージンを混同しているし、『悪霊』『未成年』にいたってはごくごく一部をしか覚えていない。もう一度読めばいいのだが、他に読みたい本がなくならないうちには手をつけにくい。面倒くさがっている。離れたがってもいる。怖がってもいる。 多くを忘れたことを残念に思いながら、それでも印象だけが強く残り続けているのは、一つ一つにケリをつけて次に進む今の読書方法の場合と違った、豊かな時間を味わっていたからかもしれない。しかしロシアのややこしい名前を苦もなく覚えていてあの話のあの時誰々が言ったセリフ云々という話がとっさに出てくる人を見ると羨ましくなってしまう。比較的覚えていたはずの『白痴』だって、黒澤明の映画を観たために隅に追いやられてしまい、思い出すのは、命を削るような演技を出演者全員がしていたあのモノクロ映像ばかりだ。原節子を美しいと初めて思えた映画だった。映画『カラマーゾフの兄弟』はビデオ録画する時チャンネルを間違えた。『鰐か鯨か』で、メモを用意するが講演の時にそれを見ながら喋ることはほとんどないと書いていた後藤明生の話が一番長い。脱線もしている。一番面白い。しかしさてどこを引用、と思うと、一部では物足りなくなるので長くなる、そうすると手と目が疲れる。『ドストエフスキーから』大江健三郎『百年後の一小説家として』後藤明生『ドストエフスキー断片』吉本隆明『革命性の先駆者』埴谷雄高 埴谷雄高の話し出す最初の標題は『精神の五重底』、かっこ良すぎる。 ドストエフスキーは濫読を誘う。若いうちにうっかりたくさん読んでしまう。しかし本当にいい出会いの時期とはある程度年齢を重ねてからの方がいいのではないか? 深刻ぶった顔してラスコーリニコフを気取るひねた人間を量産しかねない、冷笑主義に陥りかねない、安易に登場人物に同調しすぎると。結局第一部だけに留まったままだが、『カラマーゾフの兄弟』を読み直した時、私はよく笑った。一回目の時は果たしてそのような読み方をしていただろうか?(しかしこれだけは何も確かめずとも覚えている、ドミートリィがおばさんの家に借金の相談をしにいった時、「いい案があるの!金山に行くといいわ!」と嬉しそうにドミートリィに話すおばさん! ノーヒットノーランに続いて多くを割いたのがこのおばさんのことだった) その点、4人の読み手はいずれも楽しそうにドストエフスキーを楽しんでいる。私も肩肘張らず読み直しを始めたらいいんだけれど・・・やっぱりちょっと面倒だ。昭和五十六年発行 新潮社 単行本