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無造作に開いた76ページにはウンコという単語が5回、そのような本。初出は1962年から三年間にわたり「VIKING」に連載されたもの。文庫化の際に新しく加えられたものもあるがそれは蛇足。
藤枝静男『空気頭』に出てくるウンコふりかけの元ネタらしきエピソード、パゾリーニの映画『カンタベリー物語』に使われてる原作の部分も紹介されていた。 時代が古いこともあって、一線を越えたスカトロジア趣味の方々を手軽に映像その他で観賞出来る現代の目から見ると、微笑ましい程度の内容に留まっている。出来ることと、したいこととは違う。行為にまで行き着くとグロテスクでしかない。 「もしも、われらの最後の日、饗宴の卓の用意がととのい、ドラが鳴りわたり、そしてそこに不意に出されたものが一枚の銀盆であり、その上に二つのでっかい糞塊──それ以上でもそれ以下でもないことが盲人でもわかる塊りが載っていたとしたらどうだろう。わたしは信じる。それこそ人間が探し求めてきた何ものにもまさる奇蹟ではないかと。」 引用されているヘンリー・ミラー『北回帰線』からの文章 大久保康雄訳 蛇足の部分で引用されている金芝河の長編譚詩『糞氏物語』は、前半に紹介されていた様々な書物と比べて随分とつまらない。諷刺がききすぎてウンコそのものになんらリアリティがなくなり、その諷刺している対象も苦もなく分かるため、余計な意味がつきすぎているからかもしれない。『カンタベリー物語』にしろ『ガリバー旅行記』にしろそこに描かれている糞便譚も同じような意味を持っているのに。笑い話やからかいの小道具として使われるウンコは、他の汚らしいものと代替がきくが、九百行を超える詩のクライマックスで轟音を立てて産み出される様々なウンコは、ウンコ以外では意味がない。ただでさえ見苦しいものであるウンコが、象徴として多くを背負わされ過ぎて、逆にウンコとしての純粋な意味をなくし、印象を薄れさせてしまっている。わずかに引用されている分から判断するのは早計だが、かといって元の文献に当たるのはノスタルッジクの二乗みたいでその気にならない。 この本とは直接関係ないが例の詩を。 もう一編の詩 金子光晴 恋人よ。 たうとう僕は あなたのうんこになりました。 そして狭い糞壺のなかで ほかのうんこといっしょに 蠅がうみつけた幼虫どもに くすぐられてゐる。 あなたにのこりなく消化され、 あなたの滓になって あなたからおし出されたことに つゆほどの怨みもありません。 うきながら、しづみながら あなたをみあげてよびかけても 恋人よ。あなたは、もはや うんことなった僕に気づくよしなく ぎい、ぱたんと出ていってしまった。 山田稔「スカトロジア」(福武文庫) 同講談社文庫 読んだのは福武文庫版。違いがあるかは知らない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2003/04/02 01:43:21 AM
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