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カテゴリ:海外小説感想
図書館の外国文学の棚はほとんどロシア・南米あたりしか視線を走らせない。そこに隣接しているイタリア文学の棚の中で一際作品数の多い作家、それがタブッキだった。夢・幻想・バロック風といった作風紹介の文章を読んで、そういったものに飽き飽きしていた私はそのユーモラスな名前の作家から離れていた、いつもは。だけどたまには、と本書を手に取り、訳者あとがきから読んでみると、夢や幻想といったものはこの作品からは取り除かれ、一九三〇年代のポルトガルを舞台にした新聞記者の物語というので興味が湧き、読み始めたら止まらず一気に駆け抜けた。
何かの雑誌のへたくそなレビューみたいな文章になってしまった。まあいいや。 長いこと大新聞社に勤めそれなりの地位にあったのに、今は発行部数の少ない『リシュボン』という新聞で土曜日の文芸欄を担当する新聞記者ペレイラが主人公。「供述によると・・・・・・」という文章が時折挟まる、供述書として書かれた物語。面白いのは、これまで夢と幻想の作家と言われていたタブッキなのに、ペレイラが夢を見た時には頑なに「その夢は話したくありません、事件には無関係ですし、夢は人に話すものではありません」といった意味の言葉を繰り返すところ。 ホルヘ・フランコ『ロザリオの鋏』や、漱石の『三四郎』を読んでいる最中思いだしていた。前者はフランコ将軍の名前と、ありありと過去を語る文章に触発されてと分かるが、後者は自分でも理由がよく分からない。列車の客室で女と同室になる場面はあるが、そこだけの重なりで判じるのも早計。そろそろ漱石に帰れという啓示なのか。 でも、もし彼らがただしいのだったら、私の生き方は無意味だということになるのではないでしょうか。コインブラで勉強したことも、文学がこの世でなによりも大切なものだとずっと信じてきたことも。自分の意見をのべることもできないで、そのために十九世紀の短編を載せて甘んじなければならないようあん、この夕刊紙の文芸面を私が担当していることも、まったく意味がなくなります。そのことを、私は後悔したい気持なのです。まるで、私が他人であって、ずっとジャーナリストをやってきたペレイラではないかのように、なにかを否定しなければならないかのように。 右傾化する政府の下、新聞にもドイツに協力するような文章を載せなければならない状況にあって、ペレイラはフランス人作家の短編を載せ続けていたが、それも許されなくなってしまう。作家の突然の訃報を受けた時にすぐに追悼記事が書けるように、臨時に雇った若者も彼に厄介事ばかりを持ち込んでくる。そんな中、ペレイラはこれまでの自分は果たして正しかったのだろうかと自問し、最後には行動に移す。 この作品が良かったものだから、かえって他のタブッキを読もうとは思わなくなる。タブッキの中では異色作らしいので。同じ頃を舞台にした小説に手を伸ばそう。ヘミングウェイ『武器よさらば』はまだ読んでなかったはずだ。 白水Uブックス 2000年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004/12/22 01:36:56 AM
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