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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる

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2013.02.04
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カテゴリ:16 藤原氏
  「百済」は百済人の発音はホゼで「藤」があてられた、という説を信じるならば、百済から日本への難民は400年ころから奈良時代までに30万人ぐらいになっていたという説も本当かもしれない。島根県・宮崎県・奈良県・三重県に広くて大きいテーマパークを造り、東大寺の大仏を造るだけの人手は百済からの難民で賄えた。

 現在、「藤」付き苗字の人が日本の総人口に占める割合はざっと6%だそうである。8世紀の日本の総人口が500万人ぐらいとすると、「藤」付き苗字の人は30万人くらいいたことになる。不比等があとで調べて、あと一字に意味を込めて姓を与えたとしても不思議はない。

 不比等は日本征服の記念誌たる日本書紀を作るにあたって、伯耆国に天皇がいたことをことごとく消し去る作業をしている。それは蘇我氏や天武天皇の出自を消すためである。伯耆国の地名や神社や伝承を百済の王族の正当性を作り上げるためにその外(九州や大和等)に移した。

 鳥取県北栄町にあった葦原中津国を宮崎県に持っていき、神武天皇の兄弟四人がおられた四王寺山を宮崎県高千穂町の四王子峰に移し、大物主も、伊須気余理比売も溝咋姫も奈良と茨木市に移して伯耆国にいたことを解からないようにした。

 宗形三姉妹も米子の宗像にいたのを北九州に移した。孝霊天皇がおられたこともすべて消し去り、日本書紀には記載しなかった。2代から9代までの天皇のことも書かなかった。天孫降臨で、葦原中ツ国を明け渡した大国主命が出雲に行ったことは書いてあるが、事代主命・建御名方命のことも書いてない。

 不比等は、神社の祭神を書き換えたり、潰したり、神主を変えたり、新しい神社を作ったり、新たに伝承を植え付けたり、新たな地名を創設したりした。新しく地名を付けることは簡単なことである。平成の大合併を見れば分かるが、役所が決めて宣言すればよいだけである。

 藤原氏は、「嘘も百回言えば本当になる」という信念を持っている。

 また、伯耆国の伝承もきれいに消した。伯耆国だけでなく、蒜山、美作国の伝承もである。






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Last updated  2015.10.20 18:11:41
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 真実は一つなので学説の羅列はしていません。真実だと思われるものを「である」調で断定して書いています。読みづらいかもしれませんが、よろしくお願いします。

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サイの尾・猿田彦

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