カテゴリ:8 伊那瑳の小浜と多芸志の小浜
事代主の終焉の地 1 ワタラガヒ(お旅所) 国を譲るまでは、事代主は亀谷から、葛城山を通って、茶臼山(いなさ山)にいた大国主に会いに行っていた。雄略天皇は葛城山で事代主の幻影を見た。葛城山は今でもイノシシが獲れる。 2 倉吉市福庭の波波伎神社 「ヤマト朝廷(奈良ではなく天孫族は鳥取県中部に降臨していた)は、事代主が乱を起こすのを恐れて、毎年(?)、当地まで使者を遣わして、その動静を監視していた」(大意)との伝承もある。 福庭という地名は徐福一行が住んでいたことを示している。福庭には徐福一行(倭朝廷)の数名が住んでいた。まだヤマト朝廷などと言うものではないが、毎日でも様子を見に行っていたはずである。事代主はこの近くの泉の畔で余生を送られ、そこで生涯を終えた、という伝承があるが泉(いずみ)ではなく、湖(みずうみ)であった。 3 「波波伎」の神社名は元禄時代までは倉吉市大原の大原神社の神社名であった。元禄時代に倉吉市大原にあった波波伎神社の神社名をこちらへ移した。事代主が居たのだからそれにちなんだ神社名であったはずである。島根県の美保神社とは最近まで交流があったそうである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.02.20 21:33:14
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