子どものびのびネットワーク

2008/09/03(水)05:01

子どもの育ちと親の学び

子ども・子育て・家族(62)

長野市立三輪小学校PTA講演会  「子どもの育ちと親の学び」 日時:9月2日(火) 14時半から15時半 場所:三輪小学校 講師:こどもポストマン 内容: 1、子どもの育ち 「子どもが変わった」「子どもが変だ」と言われることがある。果たして子どもは以前と比べて大きく変わってしまったのか。  私の基本的認識⇒子ども自身は今も昔も変わらず「子ども」である。 変わったのは子どもでなく、社会から子どもに向ける視線であろう。  かつて、子どもは“担い手”であった。子ども社会、子ども文化の担い手であったのは言うまでもなく、家業の担い手であった。  現在、子どもは“消費者”であることを求められている。携帯、ゲーム、ネット、ファッションetc。問題とされる商品・サービスを売っているのは大人である。そして、大人が生産した教育商品・サービスの消費者であることも求められている。『多様化』と呼称される状況も、主に商品選択に関して言われるようである。  生理的早産である人の子は、大人が形成する環境に大きく規定されつつ成長する。このことは忘れてはいけない基本であろう。 2、親の学び  この資格社会の中で、親となる資格は存在しない。完全な親マニュアルなども存在しない。無論のこと傾聴すること自体は大切であるが、年配者の子育て訓話が通用するほど、社会の変化は緩やかではない。それは昔に培われたお話であるから、今聞いてもやはり昔話となる。 子どもの育ちが、社会環境に大きく規定されるのであれば、親は社会の何がどう子どもに影響するのか学んでいかなければならないであろう。子どもの育ちを通して、親が学ぶべきことは多い。では、どう学ぶのか。 3、「わからなさ」からのつながり  とかく「わからないこと」は多い。「わが子なのにわからない」というのはあたりまえのことである。乳幼児のころは、もっぱら子どもは親の影響で育つ。学齢期にいたれば、学校の影響、学校での同年齢関係の影響が、圧倒的に親の影響を凌駕してくる。同年齢集団は学校の影響を受け、学校は社会(行政・政治)の影響下にある。従って、社会の中の学校という存在に関する学びがなければ、我が子の中のわからなさはふくらむばかりである。子どもを問い詰めるのでなく、子どもを取り巻く環境について学ぶことで、子ども自身の理解に近付けるのではないか。そして、同じ「わからなさ」を抱える親同士が忌憚なく、その「わからなさ」を証しあい、それを学びのつながりにしていけばいいのではないか。PTAや育成会などもこうであればいい。 4、学校という社会制度  学校が社会制度であることは、ともすると忘れられがちである。学校にはお世話になっているのでなく、社会の定めに従い送り出しているのである。むろん教師を尊崇することは否定されるべきことではない。しかし、教師個人の人格による教育の時代では既になく、公教育は社会制度である学校の機能の問題となっていることは認識されるべきであろう。(また、言うまでもなく教育産業は私的な利潤追求のために存在している。)  従って、どんな先生が担任するかも重要であるが、社会の中で学校がどう位置づけられ、社会は学校に何を期待しているのかを知ることはさらに重要なことになってきているのである。  Ex.教育基本法・学校教育法の変化、教育振興計画、全国一斉学力テスト 5、「個の尊重」と「集団への協調」との軋轢  学校は時代につれ徐々にではあるが、変化してきている。が、しかし他の分野の急激な変化に比べると、その変化は根本的なものには至っていないと捉えられる。“不易なるもの”としての、集団教育-学級、学年集団をベースとした教育:「集団が個を育てる」「他律が自律を育てる」。しかしながら、この“不易さ”が子どもの「個」の有りようと、微妙な軋みを生じさせる。  いじめはこの典型である。「子ども本人が関係性による痛みを感じれば、それはいじめである」という認識はなかなか学校集団としては定着しない。それは、いじめを相対的に定義しようとするからである(ここからはいじめ、ここまでは人間関係のトラブル・ふざけetc.)。いじめは集団の中での認知の問題ではなく、個の主観の問題なのである(全ての人権問題がそうであるように)。  いじめとして顕在化しないまでも小学校高学年女子に顕著な人間関係の軋轢や、発達障がいとされた子どもの関係性・学習と進学の課題は、この個と集団の軋轢の表れと捉えるべきであろう。集団に入れない子どもへの特別支援としてしか個別的な対応を想定しないのは極めて大きな問題である。一人一人の子どもの「個」があって始めて、集団的社会が形成されるのであるから、全ての子どもへの個別対応が当然ベースにあるべきであろう。 6、子育ては、「個」育ちを支えること  子どもの将来は他者から与えられたり、社会から誘導されたりするものでは、本質的にありえない。子どもの人生の主人公は子どもであり、子どもの将来の芽は、子どもの中で育っている。  個育ちにとって、教育は栄養分でなければならない。決して、物指や砥石であってはいけない。栄養分であれば重要である。削られたり、計られたりするならば、問い返していくべきであろう。 個育ちにとって真に必要なのは、個を支える信頼できるパートナーである。親がパートナーになれれば一番いい。親がパートナーであるためには、親の支えが必要である。共感できる親仲間がいることは最もすばらしい。 7、教師、専門家そして親 教師:集団として見る事が習い性。集団の一員としての子ども認識。 専門家(医療、心理等):症例として類型化することが習い性。症例パターナリズムの子ども認識。 親:我が子は見るが周囲が見えないのが習い性。ホームビデオ的子ども認識-ファインダーいっぱいの我が子。⇒我が子との二者関係を基軸としながら、社会環境を洞察できる目を。 8、人と人とのつながり  親と子、家族同士、子と子、親と親。複雑に絡み合う関係の中で人は生きる。それは一つの考え方では束ねられない。また、束ねてはならない。まずは、「よろこび」の共感関係(できた、成功した、得られた)は大切であるが、「悲しみ」の共感関係(できない、失敗した、失った)に辿り着いた時こそ、関係は絆へと昇華するのだろう。  悩んだとき、苦しんだときに支えとなるのは、「よろこび」でなく「悲しみ」の共感の中で築かれた絆であろう。親子は当然、親同士もこうであれれば、背負わされた重荷を下ろしていくこともできるであろう。

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