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カテゴリ:本と映画
(注)4月15日に書いた記事。 娘の育児支援のため、またも大阪に向かっていた、今日。 コロナ変異ウィルスが猛威を振るい、感染者激増している中での大阪行き。 明後日から4月は8日仕事を請け負っている身。 大丈夫なのか、と危惧しつつの行動。 それにしても、コロナ禍がこんなに長引くなんて、緊急事態宣言が出た昨年の今頃でも、誰が予測しえただろう? 「もういい加減にしてくれ」 と、うんざりしている輩も多いことだろうが、そのセリフ、どこへ投げればよいのか? さて、数日前、ノーベル賞作家ガルシア・マルケス自らが 「私の最高傑作」 と断言する「予告された殺人の記録」を四十一年ぶりに再読した。 狭い共同体の中に他の地域からやってきた「ヨソモノ」の男が地元の娘を見染めて結婚を申し込み、町を上げての盛大な式をすませた後で花嫁が純潔でなかったことがわかり、それがもとで発生する「名誉殺人」をルポルタージュ風にえがいた中編小説だが、被害者とも加害者とも面識があった「私」が淡々と語る殺害までの過程は、従来の価値観の崩壊による時代の変化の狭間には必ずや「犠牲」という「痛み」が伴うことを、あらためて認識させてくれる。 小説では、その「犠牲」が、まず、求婚してきたヨソモノ男が好きでもないのに、母親の 「愛だって習うものよ」 の言葉と共に嫁がされた娘であり、次に、バージニティを否定されて実家に戻された娘に娘の家族が 「お前の貞操を奪ったヤツは誰だ?」 と問い詰めて名前を吐き出させた、移民二世の裕福な青年である(本当に彼が娘の相手だったかどうかは定かでない。作中の文脈から読み取る限りでは濡れ衣だった可能性が高い)。 娘の兄たちによる移民二世の殺害で娘の名誉は回復されたが(ここいら日本人にはわかりづらいイキサツ)、娘が発した言葉のみを信じた娘の家族によって 「ウブな女の子をもてあそんだ」 と一方的に決めつけられ、あげく惨殺された青年は、、、ん? どうなるの? しかも、町の誰もが彼が殺されることを知っていたのに、誰もが犯行を阻止出来なかった。 青年が移民二世、すなわち、娘と結婚した男としょせんは同じヨソモノのスタンスか、少なくとも本来の意味での「土着」ではなかったので、彼に関心が薄いか、何か特別な感情があった? ともあれ、この事件を境目に共同体は内側から軋み始め、新たな世界へと移行していく。その過程で因習に縛られていた人々も閉塞感から解き放され、彼らの「名誉」も遺物化のスピードを速める。 となれば、恐らくは冤罪で私刑された移民二世の死がますます痛ましい。 残念だったのは、娘を自分の妻にと望んだヨソモノ男がヨソモノであるがゆえに共同体に新風を吹き込むことが出来たかも知れないのに、共同体に過剰適応しようとしたのか、婚礼に関して終始旧態依然の言動をとったことである。 それでも意識の上でも共同体から抜け出した娘に触発され、彼もそこに別れを告げることが出来た(二人の後の再会はそうだと信じたい)。 移民二世の青年だけが、一身に犠牲者の痛みを浴びたまま、共同体特有の呪術的なうねりに飲まれてしまった。 つまり、彼は時代の変容が要求するスケープゴートの役割を演じたのね、、、自分では望まないうちに。 日本語の最も一般的な言葉に置き換えてみれば、これは、「運」? コロナ禍の索漠とした世においては、コロナの性質ゆえに余儀なくされる生活様式の変容に伴い、ほんの少しの周囲との違和感や立場の弱さで、誰しもがスケープゴートになってしまう危険性を持っている。 この現象、有史以来、カタチを変えて各地で繰り返されてきたが、今回も心しておかないといけないと感じる。 写真はガルシア・マルケス(Wikipedia)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.04.21 17:53:31
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