阪神淡路大震災
こんにちは。この間の17日で、阪神淡路大震災から17年が立ちました。今日は阪神淡路大震災の事を書きたいと思います。読みたくない方もいらっしゃると思いますので、その場合は以下の文章を読まないで下さい。1995年1月17日。当時の私は高校2年生。21日の土曜日から修学旅行でスキーに行く予定でした。住んでいた場所は兵庫県の西宮市。夙川という川のすぐ横にある、平屋(一部2階建て)の大きな旅館に両親が住み込みで管理人・調理師として働いていました。この時私は6畳の和室に布団を3枚川の字にひいて、父、私、母の3人で寝ていました。朝5時46分。地面の中から聞こえてきたのか、ドドドドド!!という物凄い轟音に目を覚ましました。目を開けると、隣に寝ていた父も同時に目を開けました。次の瞬間、地面が大きくグラッと揺れた。とっさに私と父は飛び起き、枕元側に置かれていた水屋(物凄く大きな食器棚)を二人で支えました。揺れたと感じた瞬間から信じられない位の大きな揺れ。始めに大きく揺れた瞬間に立ち上がれなかった母は、布団の上で地震の揺れに遊ばれてるかのように転がっている状態。『この水屋が倒れたら、全員潰されてしまう!』きっと父も同じ思いで支えていたんだと思います。揺れてる間は必至に抑えながら後ろで転がっている母が気になり、とにかく早く立ち上がってほしくて「お母さん!お母さん!!」と叫んでたのを覚えています。水屋の上段には沢山の食器がいれてあり、扉は木製の枠にガラスでした。地震の途中でガラスの扉は割れ、私と父に降りかかってきました。でも必至に押さえているので、その時は痛いとか全くわからない状態。揺れは10秒ほどで止まりました。父は額を私は唇をガラスで切り、母と、隣の部屋で寝ていた兄は無傷でした。寝ていた部屋はぐっちゃぐちゃ。水屋はどうにか倒れなかったけど、食器類は全て飛び出し床は割れたガラスが散乱。ブラウン管のテレビも床に転げ落ちていました。キッチンへいくと、廊下が歩けないほどの物の散乱っぷり。冷蔵庫の場所が地震で動いたのか、いつもと違う場所にありました。余震や倒壊の事を考えると、危ないので庭に出ようという事になりました。時間は午前6時前。冬なのでまだ周りは暗く、停電もしているので町の様子もわかりません。朝日が昇り、段々と明るくなると同時に周りの家が沢山倒壊しているのを見て愕然とした。いつもある場所に家がない。つぶれてしまっている。いつも歩いている道がない。倒れてきた家が道をふさいでいる。明るくなってきて、近所の人たちが集まりだし「生きてたんだね!よかったよかった!」と泣きながら抱き合ったりしていました。夙川は、震度7を記録したそうです。私達が住んでいた家(旅館)は半壊と全壊になってる部分がありました。もう住むことは出来ません。ただ住んでいたのが会社の建物だったため、震災から2、3日後にはすぐ隣の家の寮を仮住まいで用意していただきました。水道もガスも電気も止まっているけど、寝る場所がある。そして同じ町内に井戸水がくめるお宅があり、親切な事にお水を提供していただけたので、バケツで組んだお水で体を拭いたり、トイレを流す事も出来ました。西宮北口~夙川の間の線路が崩落してしまっていたため、母の友人は沢山の食材と生活雑貨を抱えて、瓦礫だらけの道とはいえない道を、何時間もかけて歩いてきてくれました。食べるものもほとんどなかったので、夙川の駅まで、炊き出しのカレーをもらいに行ったりしました。水道とガスが治るまでの数か月もの間、お風呂にはいるために電車に乗って数駅離れた親戚の家に家族で通っていました。本当に沢山の方に助けられました。あれから17年。これからもずっとずっと忘れないように、子供たちにこの出来事を受け継いでいきたい。●●●夏に実家に帰省した時に、震災時の我が家の写真が出てきたので、携帯カメラで移してきました。↑ここは2階建ての部分。大きくひしゃげてしまってます。↑2階建ての部分を正面から。いつもは泊まっているお客さんがいるのですが、震災当日は誰も泊まっていませんでした。本当によかった。↑2階建ての1階部分。わずか10秒ほどの揺れで、ここまで崩れるって想像するだけでも怖いです。↑2階建ての1階部分を少しだけ違う角度から。2階の右上にポッカリ空いた部分は廊下と、部屋が分断されたため。この写真を撮った数日後に、この1、2階の部分は全て倒壊してしまいました。↑蔵。この中に父と母の荷物が沢山ありました。震災後から倒壊の危険のため、立ち入り禁止になったので荷物は何もとる事ができなかったそうです。Earthquake - Kobe, JapanEarthquake - Kobe, Japan↑これとかまさにそうです。上下で別の動画です。(You Tubeが開きます。)最後までお読みいただきありがとうございました。にほんブログ村