ぼくのブログ日記

2011/05/07(土)16:31

伊丹郷町歩き

 今日は暖かくて、空一面に青空が広がった素晴らしい天気です。  9時半に我が家を出て、いつもの猪名川沿いの堤を歩いたが、田能からは河川敷に降りた。 神津橋をくぐりぬけ、次の橋の手前で堤に上がり、橋を渡ってイオンモールの前を通り過ぎ、JRの高架橋を渡って、伊丹駅前の有岡城址を目指した。  有岡城址の存在は前から気になっていた。誰がいつ頃この城を築き、どんな歴史があるのだろうということが知りたいと思っていた。  有岡城址まで1時間15分ほどかかった。  天守閣の跡は国の史跡に指定されていた。   有岡城大手門に立つ石標  この城は、南北朝の時代に伊丹氏によって築城され、伊丹城と称されていた。  永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、その頃の城主であった伊丹大和守親興は、信長方に加わり、和田惟政、池田勝正らと共に摂津三守護に任ぜられた。  元亀4年(1573)、将軍義昭と信長の対立が決定的になると、義昭に味方して信長のもとを離れた。  天正2年(1574)、信長は配下の武将であった荒木村重に命じて伊丹城を攻略させた。  親興は抵抗したがついに落城し、伊丹氏は滅亡した。  伊丹城は、この功によって村重に与えられ、村重は伊丹城の改築に着手し、3ヶ所に砦を築き、主郭とを結ぶ範囲を城内に取り込み、総構えを完成させ、城の名を有岡城と改めた。  村重は摂津の新守護となり、38万石の知行を得、信長から信頼されていた。  ところが、信長の本願寺との開戦を機に、宇喜多との対立や、謀反疑惑により毛利、本願寺方に傾倒していく。  ついに、天正6年(1579)秋、荒木村重は本願寺に内通し、信長に反旗を翻した。  かねてより親交の厚かった黒田官兵衛が、説得に来るが牢に閉じ込めてしまう。  織田方の池田恒興による有岡城攻めが始まり、村重は十ヶ月に渡って籠城を続けた。  城内の兵糧が少なくなり、水路も切られてしまって、天正7年(1579)9月、村重は妻子を城内に残したままひそかに城外へ脱出し尼崎城に逃げのびる。  主なき有岡城は、その後一か月持ちこたえたが落城。村重への見せしめに信長は村重の妻子、家臣ら120人を鉄砲、槍、薙刀で殺し、下女、若党500人余りを数軒の家に閉じ込めて焼き殺してしまった。  逃げた村重は、後に茶人となり秀吉のお伽衆になっている。  有岡城攻め、尼崎城攻略などに功のあった池田恒興父子がその後の有岡城に入り、城の名も元の伊丹城に戻した。   有岡城土塁跡   伊丹の町並み   伊丹の町並み(酒蔵)  江戸時代の伊丹郷は、都の貴族近衛家の領地となり、城は置かれず町の有力酒造家から選ばれた代表者が、近衛家の指示のもとに町政を担当した。  伊丹郷の近郊「鴻池」に始まったといわれる清酒醸造は、ここ伊丹郷で本格的に行われ、近衛家の保護のもとに大いに栄えた。  伊丹の酒は「丹醸」と呼ばれて愛好され、最盛期には毎年20万樽もの酒が樽廻船で江戸に運ばれている。  こうした伊丹郷の豊かな経済は多くの文人墨客が訪れるなど、活発な文芸活動をもたらし、江戸後期には伊丹郷町全体で約2500軒の町屋と10,000人の人口を抱える大都市に成長した。   江戸時代にタイムスリップしたような街角の風景

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