茶会でのくだらない相客、素敵な亭主
この前、七夕にちなむ催しがあってその中で葉蓋の点前による呈茶を受けた。子供だって参如できる催しだったし、茶道の心得が必要な茶会ではない。たまたま隣席した年配の女性の一人が、亭主の点前を見ながら、連れの女性に小声で、「ここで、葉っぱを手にとって、たたんで、茎で刺してとめる。」。まるで点前のテキストを読み上げているみたい。連れの女性に点前を教えようとしていらっしゃるなら、ま、それはそれでもいいけどね。でも、見てわかることを言わなくていいじゃない。亭主はたたんだ葉を建水へ。「でも今の、葉のたたみ方が違うわ。あれは小さすぎる。」よくよく点前をご存知なのだろう、人の点前に難をつけるのだから。お稽古の席ならそれでもいいけど、いくら人に教えてあげるにしろ、茶会に来てまで、そんなこと口にするような態度を人に見せないでよろし。茶会は、もてなしの心を味わうものなのに、完全TPO無視の見本やってるの気づかないのかなあ。反面教師よ、それでは。ましてや、点前は道具建てやその時々にあわせて組み立てるもの。たたむサイズまでとやかく言うなんて!各流派の茶道は、その茶道の祖の美学を学ぶ。だからと言って、他人までその美学どおりでないとダメなんてことないでしょう。そんな主張がまかり通る点前は、祖にちなむ流派茶道者限定の行事や流派茶道の振興を目的とする茶会くらいにしておけばいい。ちなみに、利休さんはマネはするなとおっしゃった。そのことは茶道を小学生のときわずかにかじった程度の私だって知っている。茶道のお稽古は、祖の美学に近づくためにその流派の所作のマネをしているのだろう。あるいはマネをしないために覚えておくのだろう。いずれにしろ、祖から頂くのは、その美学の感性であって、マネでいいわけない。それからするとテキストに載ってる点前は、基礎であって未完成なもの。定められた道具、定められた主客の振るまい、その中でしか成立しない点前が、どれほどのものだと言うのだろう。使ってみたいお気入り現代作家の個性的な道具、勝手気ままに振るまう客、いくら準備しても防ぎようのないハプニング。人が人を相手にし、道具を媒介にするエンターテイメントなのだもの。これらを受け入れ、包み込んで、やっと完成するものではないかと思う。この茶会では、たまたま主客の席に子供が座った。出されたお茶を前にして、とまどっているのか、或いはみんな揃ってから頂くものと思ったのか、動こうとしなかった。亭主の女性は、優しく声をかけ、替え茶碗を使ってお茶の頂き方を教えた。そして服加減をたずねて、「どう?おいしい?にがいかな?・・・そう、ちょっとにがいの、そうね。もう少し大きくなったら、おいしくなると思うよ。」次客からの点て出しの茶碗が次々と持ち出されている最中だった。亭主の女性はさらに全体の客の様子を見て、「皆様に、お茶の頂き方を説明させて頂きます。」と皆にもう一度同じように替え茶碗を使って、簡単なお茶の頂き方を説明した。本当に基本的な事だけ。「このように、お召し上り頂くとよろしいかと存じます。」。戸惑っていた人たちも、お茶を頂き、茶会は終った。催しに集った人にとって茶会はメインじゃない。多くの客がうまく茶を楽しめないなら、楽しめるようにリードする。この亭主の機転。もしかしたら、茶道に通じている客もいるかもしれない中で、あえて二回説明したこの素晴らしい亭主に、すごく感動。この催しの終わりに、七夕のお願い事があれば短冊に書くことになっていたのだが、亭主へ感動できたことがとても嬉しくて「多くの物事に出合って、色々な感動を得られますように」と七夕らしくない願い事を書いてしまった。女性が説明されたのは、こんな内容。左手を出し、その上に右手でお茶碗を乗せ、軽くおし頂いてから、右手で茶碗を少し時計回りに回し、右手を茶碗の横に添え、持ちにくいようであれば、右手の親指を手前にかけて、飲む。飲み終ったら、飲み口を右手の指で清めてから、正面に戻し、机におく。上座や下座にいる客や亭主への挨拶も、茶碗の拝見の所作も、机の上に戻す位置や茶碗の向きも言わなかった。そんなのは、相手を思う気持ちや道具に対する興味から出る所作であって、決まり事じゃない。人に強制する所作ではないということ。亭主がおっしゃった所作の中で茶道的な所作には、根拠がついていた。「茶碗の正面を避ける」ために茶碗を回す。天地の恵みに感謝して「いただきますと」茶を押し頂く。「後を汚したままにしたくない」から飲み口を清める。本人自身の生き方、気持ちの表現の所作だということ。客が自分の表現としてこうしたいのにどうしたらいいんだろう、と、迷いそうなこと。あとになって、この区別がきちんとされた説明だったことに気づいて、改めて感動。もう、織女様は願いのひとつめを叶えてくださいました。