マトリックス論
これは、テスト後ホームルームの授業で、「マトリックス」の映画鑑賞をしたときの感想です一度提出して帰ってきたものなので、表向きまじめに書いています。平凡な生活を送りたいですからそれにしても、今思うと、上映会で三部作のうち第一部だけ見せるって・・・意味がわかりません。第一部しか見ていないのに第三部まで感想に入っているのはほんのりとした反抗です映画「マトリックス」を見て 小市民伯爵この映画を見るのは今日で3回目なので、話の本筋ではない所ばかりを追って映画を見直すことにした。大型トラックによるトラウマ冒頭で、トリニティがエイジェントから逃げるとき、大型トラックに襲われるシーンがある。このときのトラックはスピルバーグ作品の「激突」そのままである。大型トラックの運転手が何の目的なのか、どんな男なのか全くはっきりしないままただ襲ってくる。そのとき運転手は絶対に顔を見せない。人を不安にさせたいときに最も有効なのが、顔を見せないことである。人は顔を見て判断し、安心しているのに、顔がないとそれができないのだ。存在はしているのに、正体が見えない恐怖。何を考えているのかもわからず、一方的にじわじわと追いつめられていくのだ。マトリックスもそうだ。ザイオンの人々はただひたすら感情のないロボットに一方的に攻撃され続けるのである。この「激突」という映画は徹底的な対決の後、主人公は車も仕事の書類も全てなくなり、途方もなく座り込むしかなくる。この理不尽な空しさはマトリックスを三部見終わった後の観客の姿に似ているような気がする。一体この戦いとは何だったのか。「激突」も「マトリックス」も最後は夕日である。大型トラックが登場すると、どうしてもこれから空しい戦いが繰り広げられるなと思ってしまう。13日の金曜日のように、アメリカ人にとってタンクローリーなどの大型トラックは、トラウマなのではないかと思う。虚構と現実の境界線マトリックス空間では、現実の世界よりも色彩が豊富で照明が明るく、映される情報量も多い。一方現実の世界では照明が暗く、暗闇や遮蔽物によって視界がやけに狭い。それゆえマトリックス空間の方が、現実らしい。その現実らしい世界の中で、どうすればアンダーソン君や観客の人にここが虚構の世界であるかを教えられるのか。それは、口をなくし、顔を変えてしまうことだ。例えばこのとき、エージェント・スミスが忍者みたいに壁を駆け上ってみても映画を見る人はなるほどここは虚構の世界だ、とは思わない。空を飛んでも、壁を拳で破壊してもそれらは映画の世界では「日常的」なのだ。虚構の世界とまでは思わない。しかし顔が変わってしまっては、ただごとではない。顔は自己同一性の最たるものである。現実でも整形することに異常な嫌悪感を持つ人が多いが、それも顔によって人を判断するという大前提が崩されるからだ。このような表現は他の作品においても行われている。例えば映画「A.I」では前半、主人公の家族や観客に人間のように見えるけど本当はロボットなのだ、ということを気がつかせるためには、主人公の顔が溶けるというシーンが必要だった。非日常性を感じさせるには顔をいじくるというのが常套手段なのである。それはターミネーターにも言えるし、攻殻機動隊にも言える。また自分が自分であることを認めるのは顔なのである。「A.I」の主人公が自分と全く同じ姿のロボットを見たとき、真っ先に破壊したのは顔だった。また朝目が覚めて体が毛むくじゃらになっていても自分が自分であることは疑わない。しかし体は同じでも顔が自分のよく知っている人になれば「体が入れ替わった」と叫ぶだろう。映画マトリックスでは、虚構と現実を行き来するが、その世界の違いがはっきりとわかるのは照明などではなく、首にあるプラグなのだ。そこまでして雨が欲しいのか戦闘も山場になると、雨が降る。トリニティとネオがビルに乗り込むシーンでは建物内で雨を降らすことは不可能なのに、防火装置を使うことによって強引に雨を降らしている。それに対して、エイジェント達は首をかしげる。そこで雨が降らなければいけない理由はひとつもないのである。これは黒澤明の影響が大きいのかも知れない。彼の作品は戦闘になるといつも雨が降るのだ。彼を憧れる者は、戦闘になると雨を降らさずにはいられないのだ。だからマトリックスの最後の決闘でもやはり雨が降ってしまうのである。拳は銃より強しマトリックスの世界においては、拳は銃よりも強い。どう目を凝らしても拳より銃弾の方が速度は速いのだが、それでも銃弾は避けてしまうのである。しかも側転をするほどの余裕すらあるのだ。だからマトリックスでは、強敵と戦うときには銃を使わない。また銃を持っていてもいいタイミングで弾がなくなって肉弾戦に突入する。これはやはりカンフーやジャパニメーションによるインパクトの大きさだろう映画「キルビル」でもどこの家庭にもある物の中で、一番強いものを選ぶシーンがある。野球のバット、チェーンソー、日本刀・・・その中で最後に選ぶのは日本刀なのである。映画の世界では、思い入れが強いものほど強くなるのである。あやとりと射的が得意なのび太君は普段は活躍しないけど、映画では、やたらと強いのである。このようにマトリックスの世界には、映画界のルールとも言えるようなものが数多く散りばめられている。これはマトリックスだけではない。アメリカ映画そのものが、上映時間の大部分は、映画界のお約束によって占められているのである。100%ルールに従った映画に「ザ・コア」があるが激しく面白くないのでおすすめはしない。