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テーマ:たわごと(26867)
カテゴリ:子育てで徒然・・・
先日取り上げた毒書『人間は考えても無駄である』
人間は考えても無駄である絡みの道徳教育のお話。少し前の記事ですが・・・。
『人間は考えても無駄である』心理学者である内藤教授との対談の中で過去の道徳教育で 「理想的な人物像」の話が出てくる。 土屋教授はこの理想像自体が画一的教育を象徴するものという 阪神藤川投手の起用は 『頑張ったものが栄冠を手にする』 という意味合いなんでしょうが、栄冠の影には敗れ去った死屍累々・・・。 頑張ったからといって成功するわけではない。しかし、自分で一歩を踏み出さなければ栄冠に手を伸ばす資格すらない。 小学校六年生ですからモノがわからない歳ではない。何せ今の学校制度では付属が蔓延していて学歴(社会に出るときの肩書き)が既に決まったりしている年齢ですからね。成功話を美化して載せ、『理想的人物像』を創り出すことが道徳的だとは思えないんですよね・・・。 スーパーエリートによって成り立つ社会は、一万人の犠牲があっても一人のスーパーエリートが創出できれば成功でしょう。 成功者を尊ぶ社会ってそういうことです。 でも・・・・ 日本ってそんな社会を目指しているんでしょうか? 日教組は道徳教育自体を排除しようとしていますが、その論も完全には否定できないモノがあります。 それは、子ども達が思想の修正能力が低い場合と、社会の思想強制力が強い場合。 戦時下の日本の教育の否定。これこそが日教組の目指すところではあります。 『教えられたことが正しい』と認識して、自分なりに考えることを省略することが効率のよい社会では道徳教育は『理想の人間像の押し付け』になってしまう。 例えば、同じ嘘をつくという行為。 『嘘つきはいけないこと』 と固定してしまえば、その先は嘘はつかないけど処世術として 本当のことも言わない私のような人間が出来上がって周囲は迷惑この上なくなります。 『嘘をつくことは良くない事』 ・・・・だけど、『正直さが常に人の心に対して正しいわけではない』。 『疑ってかかれ』というのではなく、『自分なりに考えること』を教育のベースに置かないと 本来必要な『道徳教育』ですら子供たちをミスリードしてしまう。 詰め込み教育を受けた世代の人間としては、小学校、中学校あたりで円座に座ってディスカッションする授業があってもよいような気がする。 他の人がどんなことを考えているのか、どんな基準がみんなの共感を得られるのか。 「僕もA君と同じ(考え)です。」 最初はろくに発言も出ない中、こんな答えばかりかもしれない。 しかし、道徳の問題提起(『人間は考えても無駄である』内藤教授の章参照のこと)をして共通認識の中に『理想的モデル』を見出して、更に自分の意見との整合性を検証する訓練は少なくとも受験勉強を然程意識しない小学校から中学1年くらいの間にやっておくべきだろう。 『成功者』を理想像として教育するのではなく、自分達で理想モデルを探す作業をさせることも今後の道徳教育には必要だと私は思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jan 16, 2010 02:54:07 PM
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